1ST LOVE

6      突然   ーKEIー
 
 
 
 
 
 春は眠くなりがちだ…と、春夏秋冬問わずにいつも眠っている彼は思った。そう思えるのはおそらく『眠り』いうものが少しずつ質を変えているせいだろう。これまで彼にとっての寝るという行為は、もちろん自然の欲求もあるのだろうが、自身を孤独から救い出す唯一の手段でもあった。しかしこの頃は主に二種類の夢を堪能するために目を伏せている。まず一つは幼かった頃のもの、もう一つは今現在のもの…いずれも彼の初恋に由来するものであった。
 初恋の人が二人いるわけではない。彼は同じ女の子に二度恋をしたのだ。一度は大人の都合で離ればなれになったものの、高等部に進学してクラスメートとして再会する事になるとは…しかも明るくて純粋な性格はあのころから少しも変わっておらず、常に一人でいる彼に何かと声をかけ、時にはあちこちへと連れ出すこともあった。海だったり、遊園地だったり、花火大会だったり…新たに作られた二人のアルバムの中でもその子は幸せそうに笑っている。
(慣れない街を案内して欲しいなら、いくらでも他にいるだろうに)
彼女から寄せられているのが本物の好意なのだと思えるまで一年もかかってしまった。
 脳裏に幼い頃と今の笑顔が重なって浮かんでくる。無意識に彼はフーッと大きな溜息をついていた。
「ニャア? ニャア…」
校舎の裏手に住んでいるのは母猫と小さな子猫たちだ。葉月珪にとっては友人とも呼べる存在で、彼女らと過ごす時間を以前は何よりも愛していた。
「ああ、悪い…変な意味じゃないんだ。ただ昔の時の方が、まともに呼べていたような気がして」
珪は近くにいた新入りの子猫をそっと抱き上げた。その子も彼を恐れることなくジッと見つめている。
「お前、似てるな。あいつに」
 あいつ…彼がそう呼んだ少女の名は、水崎悠里という。まだ幼かった頃は自然に『ユーリ』と呼んでいた。しかし今では…今なら多少遠い国に引っ越したとしても彼女を連れて行く手段はいくらでもある。しかし肝心の想いは常に喉の奥で止まったまま、なかなか外に出て行こうとしない。時を経て成長するということはこんなに切ないことなのか。
「悠里…」
水崎という名字が少し堅いせいか、無愛想な自分がそう呼ぶと余計に感情のこもらない言い方になる。そんなことは自分も彼女も望んではいないだろう。
 手の中の子猫を指先でなでながら、もう一度呼びかけてみた。
「悠里」
『頑張れー。もうちょっとだー』と叫んでいる(ような気がする)猫達の前で、葉月珪は練習を繰り返している。
「どうだ? 自然だったか?」
「にゃあ、にゃにゃあーん」
「そうか。いつかお前らにも会わせてやれたらいいな」
「にゃにゃにゃあーん」
 実に平和な光景だった。あまりにも平和だったせいか、珪自身の背後もおろそかになっていた。太陽が上に昇る頃、子猫たちは母親のおっぱいをねだりに集まってくる。
「お前も行けよ、悠里」
「にゃあ…」
わかっているのかいないのか、それともよっぽど彼の手の中が居心地がいいのか、この子は出て行こうとはしない。ガラス玉のような瞳で、じっと彼を見つめている。そのグレイとブルーを混ぜたような色はますます本物の悠里を思い出させた。
「なあ、お前達、こいつも仲間に入れてやれよ。腹減らしてるんだ」
 しかし他の猫たちはこの子だけを外しているわけではなかった。どうやら中に入ることを悠里が躊躇しているらしい。その姿を珪はなんとなく今の自分と重ねていた。
「こら、悠里。じゃれてないで、ちゃんとミルクもらえ…。本当にそっくりだ。マイペースでトロいとこ…」
そう言って子猫を地面に置き、皆の中に入れようとした。
「ほら、お前も自分から仲間に入って行け…。独りで生きていくのって、けっこうキツいぞ…」
 突然ミルクを飲んでいた猫たちが頭を上げた。以前からこの様子を見守っていた存在に気がついたらしい。
「にゃあ…」
かさっと草を踏む音がして人影が現れる。
「誰だ?」
「ごめんなさいっ。覗くつもりはなかったの。ただ通りかかったら葉月くんの声が聞こえたから…」
サラサラの髪が何度も頭を下げることで揺れる。
「ゆっ、悠里…」
それは子猫に対してではなく、少女本人に向けられた言葉だった。
 呆然と向かい合う二人の間に立ち、猫たちは不思議そうにしている。
「お前、こいつら見てろ…俺、猫用のミルク買ってくる」
「あっ…うん…」
それだけ言い残して去って行く珪が、恥ずかしさのあまりそうすることしかできないのを猫たちは知っていた。しかし悠里自身はその気持ちに気がついていないらしく、少しだけふくれっ面になる。
「…どっちがマイペースなんだか」
 悠里はそれまで珪の座っていた位置に腰を下ろし、近くにいたもう一人の自分を抱きしめた。
「あなたが悠里って猫ちゃん? 私もそうなの。トロくてマイペースなんて言われていたけど、私と同じ名前なら間違いなく美猫になれるわよ。それに悠里って名前、自分で言うのもおかしいけどけっこう好きなんだ。みんなにも気軽に呼んでもらえたりするし」
ふわふわとした毛を、そっと頬に寄せる。
「…だけど葉月くんに呼ばれるのが一番嬉しいな」
気がついていたのだ。さっき彼から初めて名前で呼ばれたことを。
「いつか葉月くんと同じ名字になって、いつもそう呼ばれたいの」
内緒よ…と言って、悠里は照れくさそうに、だけど本当に嬉しそうに微笑んだ。
 
 
 
 
 数分後、珪は買い物を終えてここまで戻ってきた。
「悪かったな…」
「あっ、お帰りなさーい」
そこには完全に主人を変えてしまった猫たちと、猫の国のお姫様と化した悠里がいた。
「お前、そういう奴らにも好かれるんだな」
「そっかな?」
珪は悠里の隣に座ると、まず彼女の手の中に何かを置いた。ピンク色のパッケージの飲み物は…。
「いちごミルク? これを猫たちに飲ませるの?」
「それはお前の分。そういうの好きだろ?」
 自分でそう言った記憶はなかったが、いつか口走ったことでもあったのだろうか。たとえそうだとしても、自分のどんなささやかなことでも知ってもらえるのは嬉しいことだ。
「ありがとう、珪くん」
「!?」
いちごミルクを飲む少女と普通のミルクを飲む猫に囲まれながら、葉月珪はいつまでも固まっていた。
 
 
 
 
END 
 
更新日時:
2002/08/29
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Last updated: 2010/8/15