1ST LOVE

39      胸騒ぎのAfter school   ーHIMUROー
 
 
 
 
 
 自身が作った試験を自身で採点する時、彼の背はいつも以上に真っ直ぐ伸びて表情も強張る。生徒もそう思っているだろうが、実は教師の側も自分を試されているのだ。半年以上も前から用意していた試験を、氷室零一は一定のリズムを保ちながら裁いていた。
「ん…?」
ふと赤ペンの動きが止まった。答案用紙の名前は『水崎悠里』…彼のクラスの女子生徒である。肩で揃えた赤茶色の髪と大きな青い瞳が印象的な、平均的に見ても美しい部類に入る少女で、勉強も運動もそつなくこなす優等生だった。氷室にとっても自分が顧問を務める吹奏学部に所属するフルート奏者として身近に感じている生徒の一人だ。しかし…。
 氷室はその答案を何度も何度も見返していた。初めは随分と酸っぱい顔をしていたが、それも時間と共に苦いものへと変化して行く。どのくらいそうしていただろうか…ついにペンが動いた時、そこには大きな数字が一つ書き込まれた。『0点』、すなわち彼女は一問も正解を書くことが出来ていなかったのだ。
「それにしても…」
確かに正解はなくとも、その内容は決して悪いものではなかった。いずれも簡単な計算ミスが原因のようだ。真剣に授業を聴いていなければここまで書き込むことは不可能だろう。
「一体どういうことだ? ここまでミスが多いとわざとやっているとしか思えないが、しかしそういうことをする理由がどこにも…」
 自分が眠ければテスト中でも眠る葉月珪のように、白紙で出す生徒はいくらでもいる。今回もその時のように無視をすれば良いのだと思おうとした時、職員室に一人の生徒が入って来た。
「失礼します。氷室先生にお借りしていた本を返しに来ました」
「守村か」
眼鏡をかけた小柄な少年もまた、身近に感じている生徒の一人だ。彼になら何かを聞けるかもしれないと本を受け取りながら考える。
「君に聞いておきたいことがある」
「なんでしょうか」
「うちのクラスの水崎についてだが…」
その時桜弥の表情がわずかに険しくなった。彼もまた悠里に氷室と同じ好意を寄せているのだろう。彼女が一体何をしたのか…問いつめたい心情になっているのだ。
「日中…というか、日頃の授業態度はどのような感じなのだろうか」
 桜弥の顔は今度は狐につままれたかのように、唖然としたものに変わった。それについては自分よりも教壇に立つ氷室の方が余程わかっているだろうに。
「数学の時とそんなに変わりません。真面目に出席していますし、態度も立派だと思います」
「教師のえり好みなどは?」
「それはないと思いますが…」
なるほど、自分が個人的に嫌われているわけではないらしい。
「よくわかった。もう帰ってよろしい」
「はあ…」
氷室は桜弥を視線だけで見送ると、フーッと溜め息をついた。しかしどうしても今回の理由を突き止めたい。もう他人を頼ることが出来ないのであれば…スッと立ち上がると、吹奏学部の部室である音楽室へと向かう用意を始めた。
 
 
 
 
 翌日の放課後、悠里は担任教師に言われるまま教室にたった一人で残っていた。緊張した面持ちはおそらく彼に呼び出された理由に気がついているからだろう。机の上には教科書とノートと筆記用具が置かれている。
(今回の補習は私だけかな?)
その時ガラッと教室の戸が開かれた。そこにはいつもと同様の表情を少しも崩さない氷室の姿があった。
「よろしくお願いします」
 頭を下げる悠里の前に氷室は立ち、厳しい声で言った。
「机の上の物はしまってよろしい。私は補習のために呼び出したわけではない」
「そうなんですか、すみません…」
いそいそと片付け始める悠里を見つめながら、氷室は椅子に座って足を組んだ。
「今のではっきりとわかった。水崎、君はわざと回答を間違えて提出したな」
「え…?」
「私は一言も補習を行うとは言っていない。しかし君はすでにそのつもりでここに来ていた。初めからそれを目的に試験を受けていたとしか思えない」
ずいっと迫ってくる相手に、おとなしめの女の子の肩がピクッと震える。
「叱るのはまだ早いと思っている。とにかく理由を聞かせなさい。こうすることで何か君にメリットがあるとでも言うのか」
 俯いてしまった女の子をこちらが一方的にいじめているような雰囲気になってしまった。それでも声を奮わせて彼女は言った。
「…ごめんなさい…」
「別に謝って欲しいわけではない」
「自分でも本当に愚かなことをしたと思っています。でもこうでもしなければ先生にとって私は本当にただの生徒になってしまうから…」
この生徒は一体何を言っているのか? 氷室が眉をひそめている間にも彼女は話し続ける。
「テストで点を取ってそのまま忘れられたくなかった。たとえ悪い形でも先生の記憶の中に残りたかった」
俯いた髪の間から雫が零れて膝に落ちる。思いがけない出来事に、氷室は何も言えずにただそれを見ていた。
「私…先生のことが好きなんです」
 真っ赤に染まった夕日が室内の全てを朱色へと変えてゆく。教師にとっても、また生徒にとっても思いがけない展開に、それでも時は静かに流れた。
(もう…全部おしまい…)
涙に濡れた目をギュッときつく伏せる。俯いたままの彼女に向かって氷室の指が動いた。そっと悠里の顎をとらえて自分の方へと向けさせる。
「氷室せん…せ…」
彼の顔が自分へと近づいてくる。恥ずかしくて目を閉じると、唇に温かな何かが触れるのを感じた。まるで包み込むように優しい…日頃の彼からはこのようなキスが想像出来ないかのように。
 椅子を引いてサッと立ち上がる音がして、悠里はハッと我に返った。それは夢の終わりを告げるとてもリアルな音だった。
「補習は行わない。後日再試の連絡をするので、必ず受けるように。もうこのようなことは止めるんだ」
「はい」
「以上だ。早く音楽室に行きなさい」
悠里を残したまま、氷室は教室から出ていった。今の出来事が全て嘘なのだと思わせるように…しかし無駄を嫌うあの人は、余計な期待を抱かせないようにしたのだろう。決して傷つけることなく、良い思い出へと姿を変えられるように。やはり本当の大人だったのだ。
 
 
 
 
 数日後の職員室、氷室零一はあの時と同じように一枚のテスト用紙を前にしていた。視線だけで何度も回答を追い、その結果を素早く赤ペンで書き込んだ。『100』…もともと優秀な生徒だったが、前回の反省もふまえて猛勉強したのだろう。そして二度とあの時のようなバカな真似はしないと断言出来た。これを本人に返してしまえば、またこれまでと同じ毎日が戻ってくるだろう。
「それにしても…」
 もう室内に他の職員はいない。朱色に染まる空に気が付いて立ち上がり、窓の前に立つ。校門を出て行く女子生徒の中に無意識にあの少女の姿を探している。
(どうしてしまったのだ、私は)
自分の胸に問いかけても答えは返ってこない。止まってしまった恋、終わったはずの時間、そして報われることのなかった想い…。
「ユーリ! 一緒に帰らない? ウィニングバーガーに寄っていこうよ」
「良いねー、行こう行こう」
突然飛び込んできた会話に心臓が激しく打ち付けるように高鳴って行く。寂しいのだ…自分のことを好きだといった少女に、また変わらぬ毎日が戻ってくるのが。今、2人の恋はゆっくりと動き始めて行く。
 
 
 
 
END
 
 
 
 
ヒムロッチハピバー!! …というにはあまりにも遅すぎるか。本人に怒られても何も言えない立場の私であります。ごめんなさイッ。
これもネタ自体は発売前にあったものでして、主人公の性格が微妙に違っていますね。こんなに泣き虫ウジウジタイプではないか。ゲームの中のヒロインは結構さばさばしていて私もそのあたりがもの凄く好きなんですが、特に先生との漫才コンビぶりには無条件に惚れちゃうくらいでした。でも最後に先生に対して感謝の気持ちを述べる大人な部分も好きです。
更新日時:
2004/12/12
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Last updated: 2010/8/15