1ST LOVE

32      ボンネットに太陽 ファーストラブコレクションC   ーHIMUROー
 
 
 
 
 
 放課後の音楽室にて…はばたき学園高等部吹奏楽部に所属する面々は、それぞれの楽器を抱いて決められた位置へと向かい準備と練習を開始する。午後のそんな当たり前の光景の中、音楽室のやや中央に位置するグランドピアノの真横で顧問教師である氷室零一は一人の女子生徒と向かい合って話をしていた。といっても声を出しているのは一方的に氷室のみであり、彼女の方はそれをうつむき加減で聞いている。
(またか…)
その様子を目にした部員たちは心の中で同じ言葉を呟いた。実はこの女子生徒は吹奏楽とは縁のないまったく部とは無関係な人間なのだ。関係があるとするなら氷室零一が担任するクラスの一員であることのみ。しかしだからといって部員たちは彼女のことを邪魔だの私たちの氷室先生を取らないでだの思ってはいない。実はここにいるほとんどが…大半が…全員が…彼女には海より深く同情しているのである。
 この生徒だが、名前を水崎悠里という。赤茶色の髪を肩のあたりで整えた可愛らしい顔の少し小柄な女の子だった。そのせいか彼女を見ていると頼りない小動物を連想させ、今でははばたき学園の全生徒の母性と父性本能をくすぐりまくっているのだという。意外…といっては失礼だが、成績の方はかなり優秀で、同じクラスの葉月珪・守村桜弥・有沢志穂らと共に四天王の一角を形成するほどである。しかし他の3人に比べてあまりにも隙が多いために早速担任から目を付けられている感じなのだ。今となっては音楽室に呼び出される常連さんとしてもすっかり有名人になってしまった。
(で? 今日は一体何があったんだ?)
遅れて入ってきた生徒がさっそく隣の生徒に小さく尋ねた。
(さっきからアルバイトがどうのこうの言ってるらしい)
その情報は広い音楽室にあっと言う間に広まった。
(悠里ちゃんがアルバイト!?)
部員たち全員が今日の練習が荒れることを覚悟した。あの水崎悠里がアルバイトを始めるのである。氷室零一がそのことについて一言の注意ですませるはずがない。実際に聞こえてくる氷室の言葉には「節度」だの「学業優先」だの有り難くないものばかりが並べられていた。
 はばたき学園の校則にはアルバイトを禁止するような事項は一切ない。これは理事長の方針なのだろうが、若いうちから広い世界を見るのは必ずプラスになることだし、自分でお金を稼ぐことでその大切さや感謝の気持ちを学ぶよい機会だと判断したものだった。実際に高名な芸術家として高収入を得ている生徒もいたし、芸能科でもないのにモデルとして活躍している者もいるし、勉学を二の次にして生活費を稼ぎまくる苦学生もいる。ただアルバイト先についてはあらかじめ担任に報告して吟味してもらう必要があった。悠里としてはその当たり前の手順を踏んでいるに過ぎない。しかし氷室が彼女に向ける表情はどこか苦々しかった。それは彼がアルバイトの件に関して理事長と異なる考えを持っていたから…だけではないからなのだろう。
「君の希望は受理された。…行きなさい」
「はい先生。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ありがとうございました」
 悠里は丁寧に頭を下げると、そのまま音楽室の出入り口まで足を進めた。その間に目があった部員たちに会釈することも忘れない。出口の近くで準備をしていたパーカッションの面々が彼女に声をかけた。
「悠里ちゃん、バイト始めるの?」
「ハイッ。雑貨屋シモンで販売員するんです」
「すげえなあ。頑張れよ」
「ありがとうござ…」
ドゴッ!! という鈍い音が音楽室に響く。次の瞬間には悠里の体は出口横の壁にめり込んでいた。歩きながら話していた為に視線を外した一瞬に激突してしまったのだ。
「だっ、大丈夫?」
「はいっ…大丈夫れふ…」
ふらふらと音楽室を出ていく悠里を部員たちは嫌な予感と共に見送った。そしてここの主のため息がいつになく深かったのもまた印象的な話だった。
 
 
 
 
 それからしばらくのち…水崎悠里が雑貨屋シモンで働き始める日がやって来てしまった。それまでの氷室零一の様子ははたから見ていても不安定なのはバレバレで、日頃は冷静な彼から八つ当たりに近い説教をされる生徒が多く見られた。不用意に悪戯を仕掛けようとした藤井奈津実がいつもの3倍は叱られ、更に倍のレポートを要求されたのは言うまでもない。特に放課後の音楽室にいるとあの時の話し合いがまざまざと蘇ってくるようで…。
(おい、今日はどうだ?)
(どうも駄目みたいだな。心ここにあらずって感じだ)
(悠里ちゃんもまた罪なことを…)
 部員が心配?そうに話をしている時、氷室は無意識に音楽室のグランドピアノの蓋を持ち上げた。滑らかな鍵盤の上に指をそっと添える。すると両親からそのまま引き継いだ音楽家としての鋭い感性が響き、音楽室に美しいピアノの音が広がってゆく。それははばたき学園の校舎を柔らかく包み込んだ…のはほんの一瞬の事だった。次に待っていたのは奏でるというよりも叩きつけるような音の暴走である。
(あのうっかり者の水崎の事だ…もう既に取り返しのつかない失敗を犯しているかもしれない。自分の体より大きな品物を持ったまま転んで陳列された商品を将棋倒しにしたり、声をかけられて振り返った瞬間に客に激突したり…そしてそのたびに店主に叱られているだろう)
自分が音楽室に呼び出しているのは完全に棚上げだった。
(水崎は確かにおっちょこちょいというか…他の人間と比べて相当抜けている部分がある。しかしひたむきで真面目な部分は大変評価出来る部分だ。努力家で勉強好きなところは他の教師も認めている。なのに出会って数日の雑貨屋店主に彼女の何がわかると言うのだ!!)
氷室の頭の中では見たこともない店主がすでに鬼の形相とすり替えられていた。そのような者に自分のクラスのエースがいたぶられているのだ。大きな手が直接鍵盤に叩きつけられる。ピクッと体を震わせた部員たちを氷室はキッと睨み付けて大声で叫んだ。
「本日の練習は各自で行うように! 以上!」
 次の瞬間に彼の体は弾丸のように音楽室を飛び出して行き、更に次の瞬間には駐車場から自慢のマサラティGT3000
が暴走族もびっくりの騒音をたてながら走り去っていった。目的地は…おそらくあそこであろう。
「どうしましょう、部長…」
「祈りましょう。次のコンクールの為にせめて交通事故だけは起こさないように」
 
 
 
 
 
 雑貨屋シモンは公園通りの角にある店であった。まるで童話に出てくるような可愛らしい店舗の中にはオーナー自らが世界各国で集めてきたカラフルな雑貨たちで溢れている。それらを格安で購入出来ることから常に老若男女が集い、新しい流行を吟味しているはばたき市でも有名なところだった。その人気も手伝ってアルバイト募集の際の倍率もものすごいものがあるのだそうだ。そしてその店にはばたき学園高等部の一教師が血相を変えて訪れたのは、その日の午後四時過ぎのことだった。
「こっ…ここは…?」
背の高い精悍な顔つきの彼はただ呆然とその場に立ちつくしてしまった。若干ずれてしまった眼鏡を直すことも忘れてしまっている。そもそも雑貨屋というものは生活に役立つ小物類を扱う店なのだが、そこに見られたのはまさしく(本人のみが)想像を絶する世界なのだった。かつて彼が雑貨と呼んだ…バケツに洗面器に柄付きたわしといった類はどこにもなかったからだ。雑貨の意味を何度も思い浮かべてもあまり意味はない。そういった生活用品は現在ではホームセンターといった大がかりな店舗で扱うのである。呆然とする彼を見かねた中の者が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ」
「あっ…」
「氷室先生…?」
 聞き覚えのある鈴のような声の主は、店員の揃いのエプロンを身につけた水崎悠里だった。
「びっくりしました。まさかこちらでお会いすることが出来るなんて。お仕事は大丈夫なんですか?」
彼女が言っているのは吹奏楽部の練習のことだろう。いつも呼び出される関係からか、自分を可愛がってくれる部員たちには悠里も親近感を抱いている。そして近くにはばたき市主催のコンクールが控えていることも知っていた。
「それは部員たちにも各自でやっておくようにと…どっどうでもよろしっ」
しかし今の悠里を見ていると、いつも学校にいる頃と少しも変わらないように思われる。そして彼が内心決めつけていた感じの店主の姿もそこにはなかった。
「どっ…どうだ、調子は」
「はい、皆さんに親切にしていただいてなんとか頑張っています」
「そうか…」
これは後から聞いた話だが、ここのオーナーである世界的デザイナーの某氏は「お客さまは神様なのよっ。一人一人丁寧に対応するのよっ。その為にも店員全員が仲良くして店に良い雰囲気を作るのよぉぉぉーーーっっ!!!」という信念の持ち主であるらしい。初めから悠里を不安にする環境ではなかったのだ。
 不安は解消されたが、それでも彼がここに何をしにきたのかは悠里はわかっていない。女性向けの雑貨を扱う店に自分がお世辞でも似合う者だとは言えなかった。
「そのっ、今日は買い物に…だな…」
「そうだったんですか。でしたら中にどうぞ」
彼女は一切の疑いももたずに氷室を中へと導く。店員たちも初めは驚いたようだったが、すぐに持ち直してにこやか彼を迎えたのであった。
「どういったものをお求めですか?」
ここが思いこんでいた通りの雑貨屋だったなら洗濯石鹸一個購入して帰るだけだったはずなのに…ここでどうするべきか氷室はしばらく考えていた。
「先生?」
「そうだな…水崎、君に選んでもらおうか」
「はいっ?」
悠里のすっとんきょうな声が店内に響く。反対に氷室はしてやったりといった表情だ。本当は買い物の目的などなかったので、話を先に進める苦肉の策だとは彼女は気付かない。
「そうですねえ…ではこちらにどうぞ」
 少し戸惑いの表情を見せたものの、悠里は先に立って氷室を店内の奥へと導いた。そこは店内でも特別に華やかな…彼に一番似合っていないかもしれない贈答品を集めたフロアーだった。
「きっ君は一体何の根拠があってこんなところに…」
その声は見事に裏返っていた。
「確かに贈り物の為に華やかな装飾はしていますが、実際の品物はいずれも実用的で扱いやすいものばかりなんですよ」
悠里は悪びれもせずににっこりと笑って言った。確かに…他人に何かを贈るということは、その人に大切に愛用して欲しいと望んで行うものなのだ。
「それで…こちらの商品はいかがでしょうか」
悠里が差し出したのはレースとリボンで飾られた籐のバスケットに座っている2個のマグカップだった。
「…これを私に勧めるのか…?」
「どうぞ直接お手にとってみて下さい。飾り付けはしてありますが、実際の商品はそれほど華美ではありません」
言われるままにカップを手にしてみた。なるほど…少し大きな自分の手にもしっかりと馴染むシンプルな形をしている。アイボリーホワイトに英字新聞のようなイラストが淡いブルーで描かれていた。もう一つのペアのカップは模様がグレイに印刷されている。
「なるほど。これなら飲み物も充分に頂ける」
「コーヒーもそうですけれど、この頃はお茶のブームもあって人気の出てきている商品です。昼食にお味噌汁やスープを入れてもいいんですよ」
 こういった店には自分が気に入る物などありはしないとたかをくくっていたが、氷室はそのマグカップを一目で気に入ってしまった。
「流石我がクラスのエースだな。私のことをよく見ている。どんなことをアルバイト先でやらかしているのかと思っていたが、心配しすぎていたようだ」
「すみません…」
「問題ない。では早速包んでもらおうか。当然このかごやらリボンやらを除いてだが」
「ではお色はどちらにしますか?」
悠里の問いかけに氷室は190pの体をふんぞり返らせる。
「どちらもに決まっているだろう」
「いっいいんですか?」
「無論だ。一つは自宅で、もう一つは職場で使うことにする」
「はいっ、では会計までお願いします」
ここでは客と店員という関係のはずなのに、やはりどこか教師と生徒に見えてしまう二人だった。それでも氷室は無意識に微笑みを浮かべている。どうやら新人アルバイター水崎悠里は常連客を一人ゲットしたようだった。
 
 
 
 
 
 初めに訪れたときの慌てぶりから一転して、シモンを出る時の氷室零一は実に晴れ晴れとした顔をしていた。もちろん手には買ったばかりのペアのマグカップを大切そうに抱きしめている。そして駐車場に停めてある愛車に身を沈めながら、脳裏にはなみなみと注がれたコーヒーを飲む自分の姿を浮かべている。家にあるイタリア製のソファーもそれを待っている事だろう…エンジンがかかるのと同時に飛び出していった彼が警察に捕まらずに自宅までたどり着けたのは奇跡と以外言いようがなかった。
 彼の脳裏の中ではコーヒーを入れてくれた誰かさんの姿ももちろんあった。それが数年後には現実になるとはこの時点では誰も思ってはいなかったけれど。
 
 
 
 
END
 
 
 
 
ファーストラブの中でもダントツ一位でツボにはまってしまったのが氷室先生でした。ブッ壊れ具合が尋常じゃないぞヒムロッチ。この話では主人公も一緒に壊れてしまいました。これを記念すべき先生のお誕生日記念の創作にしてもいいのでせうか。非常に申し上げにくいのですが…私は氷室×主人公が大好きであり、間違いなくこれにも愛があります。
影の主役は吹奏学部の面々でしょうか。もちろん全員が「先生は悠里ちゃんが好きだぞ」と知っています。全てを承知で日々先生の暴走に耐えているとても大人な人たちなのです。なのに先生は誰にも知られていないと思いこんでいる…彼らの苦悩は卒業まで続くのでした。合掌。
更新日時:
2003/11/13
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Last updated: 2010/8/15