1ST LOVE

31      天使たちの時   ーKEIー
 
 
 
 
 
 濃紺の空を飛ぶ飛行機の窓から空港の光が見える。ベルトによって縛られた体を椅子の背に預けながら、それでも彼の瞳はぼんやりとそれらを眺めていた。
(2週間ぶり…か)
そう思うと自然にため息が零れてきた。モデルの仕事はアルバイトと割り切ってはいたものの、大学に進学してからはかつてのように学業優先を許してくれるほど事務所は親切ではなかった。葉月珪の名前は自然と全国区に広がり、こうして海外の仕事まで舞い込んでくる始末である。モデル以外の…例えば歌や役者などの依頼も事務所には頻繁にあるようだが、それはヴァイオリニストの母親と建築家である父親のネームバリューを頼ってストッパー役をはたして貰っていた。
 目の前にあるスクリーンが日本の日時と天気を示してくれている。今日は10月の16日、天気は曇りのようだった。午後四時を過ぎるとあたりはもうすっかり夜の装いである。気温も以前に比べて随分と寒くなってきた。こんな秋と冬の境目のような季節に自分は生まれたのだった。そのせいだろうか一時期は誕生日を忘れるという信じられないことをしていたものだが。
(今日は葉月くんが生まれた特別な日でしょう?)
それは数年前に彼女が言った言葉だった。その時は喜びよりも驚きの方が強かったことを覚えている。自分のことを特別だと言い、生まれてきてくれたことをありがとうと思ってくれる存在なんて…しかもそれがかつて共にあった必死に求めてやまない相手だったのだ。あの頃の自分はそれを皮肉に思い、しかし今は誰よりも幸福だと思っている。
 我に返ったときにはすでに飛行機は止まっており、周りの乗客も荷物を手に降りてゆくところだった。おそらくその中には撮影に参加したスタッフもいるのだと思う。本来ならば彼らと同行するはずが、今回はなぜか飛行機の中から珪の単独行動が許された。地味な格好にサングラスさえ身につけてしまえば気付く者は多くはない。空港を陣取るファンやマスコミなども別な情報を流すことですでに対策を終えていた。
「今日はあなたの誕生日でしょう。ぎちぎちのスケジュールをこなしてもらったお礼よ。後は自分で上手くおやりなさい」
あのマネージャーまでもがそう言ったほどだ。無論その言葉の意味はわかっている…喫茶アルカードでアルバイトをしていた頃と変わらぬ無邪気な明るさで、彼女はこの仕事に関わる者たちの警戒心を解き放っていたからだ。珪は周りの様子を伺いながら、もっとも地味なスーツ姿の男性たちにまざって立ち上がった。
 
 
 
 
 空港の上にある喫茶店の一番目立たない席に彼女は座っていた。しかし硝子張りの壁からはあらゆる国や地方へと旅立つ人々の姿がよく見える。まるで鮮やかなパズルのように変わる光景を、綺麗な青い瞳はじっと見つめていた。
(2週間ぶり…ようやく珪くんに会える)
緊張と喜びで体中が震えている。落ち着こうと注文したレモンティーを口にするが、それさえも波打っている始末である。思えば事務所としても珪に逃げられないようにするための苦肉の策だったのだろう。突然降って湧いたかのようなイタリアロケに、二人には拒否権も与えられる隙はなかった。
 でも寂しいと本音を口にしてしまえば相手に大きな負担を与える事になる。笑って恋人を見送ってあげるのが唯一自分に出来ることなのだからと割り切るしかない。それでもモデルの事務所や苦手だったあのマネージャーも二人の付き合いを認めてくれるようになったので、その分の胸の重みは軽減されたように思う。寡黙な彼から毎日のようにかかってくる電話とメール、そして絵葉書の数々がそれまでの悠里の心をどれだけ慰めてくれただろう。
(でも…やっぱり珪くん自身に会いたい)
悠里の体にはもうすでに珪の全てがしみ込んでいる。抱きしめてくれる感触も、耳をくすぐる甘い掠れた声も。
『俺の誕生日には帰れるから。空港まで来てくれないか?』
そう言われてここまで来たのだ。愛する人が生まれた日、そして巡り会う運命がゆっくりと動き出した日だ。いつの間にか自分の誕生日よりも大切な日になって、時々自分の生まれた日を忘れてしまうことさえあった。人混みの中から見つけることは難しいが、それでも慌ててこちらへと向かっているだろう。なるべく他の人に悟られぬよう、それでも必死な形相で。外の冷たくなりかけた空気をお土産のように纏いながら…。
「ごめん…待ったか?」
 降って湧いたかのような声に悠里の体がピクッと震えた。自分が空想していた声と現実に聞こえてきた言葉が完全に同化していたからだ。
「えっ?」
人気モデルとは思えないほどラフな格好をした彼が向かいの席に腰を降ろしている。悠里がぼんやりしている間にウェイターが注文を受けて立ち去っていた。
「珪く…ん?」
「久しぶり。どうした? そんなにびっくりした顔して。俺の顔を忘れていたわけじゃないんだろ?」
そう笑顔で問われて、ようやく悠里も本調子を取り戻した。
「びっくりしたよー。だって今考えていた通に珪くんが登場するんだもん」
「お前…一体何を考えてた?」
「なーいーしょっ」
 たかが2週間、それでも恋人達にとってはされど2週間である。お互いが別れてから変わっていないのか確認するためにいつもより長く見つめ合っていた。この二人には幼い頃の空白の期間があっただけに尚更である。
「大変だったでしょう?」
「結構詰め込んだスケジュールだったからな。でも待っていてくれる人がいるのはやっぱり違う。メールとか届いていただろ?」
「うん。絵葉書も写真も全部大切にしてるよ」
それらと一緒にしたためた言葉を露骨に思い出したのだろう。珪の顔が少しだけ赤く染まる。
「照れてる?」
「…あんまり言うな」
悠里がクスクス笑っているうちにウェイターがモカをテーブルに置いた。冷めたレモンティーのカップと届いたばかりのモカのカップが重なってカチンと音をたてた。
「おかえりなさい」
「…寂しい思いさせたな。ごめん」
「そんなことはないの! 私も少し大人になったみたいでね、待つことを楽しめるようになってきたんだから」
 悠里が得意げに鞄から取りだしたのは一枚の紙切れであった。
「珪くんきっと疲れて帰ってくるから出かける元気もないと思って、誕生日はお店を予約しないで家でのんびりと過ごすことにしたらいいなーって思ったの。そこでネットで美味しいケーキ屋さんを調べて、一日かけて予約してきました」
「…凄いな」
「でしょ? そして次の日には一緒に見る映画や音楽のDVDを探しに出かけたりしてね」
高校時代は故障していたテレビをそのまま放置していた葉月家のリビングも、恋人との映像鑑賞という新しい趣味を得た持ち主の意志によって修復され、ビデオやDVDプレイヤーも最新の機種が置かれるようになった。
「恐れ入ります、お姫様」
「なんのなんの」
 その次の日は彼への手料理のレシピを整理し、翌日はクリスマスを目指して編むセーターの材料を購入したのだそうだ。手芸部に所属していた彼女の手製はどこに着ていっても評判がいい。
「でも毛糸を選んでいたらふと悪戯したくなってきたのね」
次に鞄から飛び出してきたのは…おそらくクリスマスまでに作られるセーターとお揃いになるはずの手袋だった。
「おい、ちゃんと眠っていたんだろうな?」
「うん。珪くんのこと考えていたらあっと言う間に完成したのね。それから…」
まだ出てくるのか…でもそうとは申し訳なさすぎて言えなかった。次に出てきたのは美しい皮細工のキーケースとコインパースだった。
「手芸部の先輩に皮細工を教えてって頼んであったの」
と、なんでもないことのように悠里は言う。どちらもごく小さな四ツ葉のクローバーが描かれている揃いのデザインだった。
「…凄いな。どっちも欲しいと思っていたものだ。いつからそんな超能力身につけたんだ?」
「近くに超能力者がいるからじゃないのかな。こんなに影響受けやすいなんて知らなかったよ」
 無論手料理の材料もすでに葉月家の冷蔵庫で二人の帰りを待ちわびているのだという。
「なんだ…久しぶりに会うから俺も喜ばせてやりたかったのに、先越されたな」
「予定立てていた?」
「いや、それはないけど…じゃあ行くか。まずはケーキ屋か?」
「うん!」
こうして二人で歩ける時を待っていたのだろう。モカを適当に口に入れた程度で立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
 駐車場で彼の車を見つけて乗り込む。すでに体が慣れた助手席に沈むとようやく安心したような気持ちになる。胸が一杯で言葉はなかなか出てこないが、その代わりに信号で止まるたびに顔を見合わせて微笑んだ。
「…あれ?」
車がはばたき空港から離れてゆくにつれて、悠里は自分達の目的地への道のりとは異なるところを走っていることに気がついた。
「ねえ、ケーキ屋さんとは別方向じゃない? 場所間違えちゃった?」
「…そんなことはない」
「だって…」
「ケーキ屋もまだ大丈夫だろう。久しぶりに帰ってきたんだ、はばたき市の空気をじっくり吸わせてくれないか?」
それもそうかも…と悠里は思い直す。ヨーロッパで過ごした2週間も、おそらくは詰め込まれたスケジュールで息をつく余裕もなかったのだろう。だとしたらこれからの予定を勝手に立てた自分にも責任があるような気がしてキュッと胸が痛む。
「そうだね。久しぶりに夜の臨海公園でも歩く?」
わざと明るく笑いながら言うと、大きな手が子供にするように優しく頭を撫でてくれた。
「はいはい。行くぞ」
 濃紺の空には金銀の星が瞬いている。耳を通り過ぎるのは穏やかな水音のみ。冷たい空気を全身で感じながら二人は人影まばらな臨海公園を歩いていた。
「お前…」
「えっ?」
突然紡がれた珪の言葉は少し小さく、うっかりしていると聞き逃してしまいそうだった。
「珪くん?」
悠里は少し前を歩く彼の腕を掴んで止まらせる。その表情は消え入りそうなくらい不安げで…。
「そんなに無理しなくてもいい」
「そんな、私無理なんてしてないよ?」
「だろうな。お前が待つのを楽しんでいたというのも本当だと思う。でも一人きりで待たされることを寂しいと思っているのは俺だけじゃないだろう?」
珪の腕から離れて悠里は立ち止まる。そしてそのまま俯いてしまった。
「寂しかったら寂しいって言ってもいい。もちろん俺にはどうしようもないことの方が多いけれど…それでも辛い気持ちもきちんと受け止めてやりたいって思ってる」
会えない期間を楽しもうとしたことは間違ってはいないだろう。しかし心に渦巻く不安を口にしないよう追い込んでいたのは事実だった。繊細で優しいこの人は再会した瞬間にそれを見抜いていた。
「わたっ、私…」
何かを言いたいのに言葉は声にならない。ここで何かを言ってしまえば全てが言い訳になってしまう。冷たい頬につるつると涙が伝う。それを見た珪はそっと彼女に手を差し伸べた。
「……おいで」
「珪くんっ!!」
悠里はそのまま胸に飛び込んだ。そして彼の服に涙が染み込んでゆく。
「バカ…そんなに寂しかったのか?」
「違うもん!! 珪くんが優しいからだよ…」
「そうか…」
珪は悠里の細い体を折れそうになるほど強く抱きしめ、二人は同時にゆっくりと目を閉じた。
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
ハッピーバースディ珪くん!! ちょっと遅くはなりましたが、やはりこの時期になると彼の話を書きたくなってしまう管理人でした。でも17才の誕生日記念に、卒業後のラブラブストーリーを書いてしまう適当さは相変わらずってとこですか? 
本当はですね、もっと長い前・中・後編くらいの話を考えていたのです。でも先日から公開されているトレーディングカードのイメージイラストを見てから、どうしようもなくこの話を書きたくなったのでした。そのイラストがラストシーンの『おいで……』に重なる感じです。あんな優しい顔を恋人にしてもらえたならその胸に飛び込まずにおれませんって。もちろんうちの悠里も例外にもれず。
更新日時:
2003/10/22
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Last updated: 2010/8/15