1ST LOVE

15      君との時間   ーHIMUROー
 
 
 
 
 
 午後7時きっかりにマンションのチャイムが鳴る。台所に立っていた彼女は慌ててドアまで走った。
「お帰りなさい」
「ああ…ただいま」
新しい生活が始まってもう半年になるのに、この人は未だに『お出迎え』の習慣に慣れていないらしい。なんとなく目をそらしてしまうのを悠里は『やっぱり一人暮らしが長かったからなんだろうなあ』と思っており、まさか自分が目の前に立つからだとは玉葱のみじん切りほども考えられないのであった。
「ご飯にしますか? お風呂ですか?」
「…では食事を」
「はいっ」
 スーツを脱いで簡単な私服に着替える。すぐにリビングへと向かうと、そこには可愛い新妻の作った夕食が並べられていた。ポークチョップに白菜とキノコとすり身のスープ、生野菜のサラダにはノンオイルのドレッシングを使うが、青じそ派とすりごま派に別れているために二本が仲良く並んでいる。
「お弁当、どうでした?」
「…美味かった」
おそらくそれは本当のことだろうな、と悠里は思う。最愛の旦那様は元担任教師。もし何かがあればたとえ通じないとわかっていても不満な点を並べずにはいられないのだ。まだ出会ったばかりの頃はそれが怖くてたまらなかった。ようやく可愛いと思えるようになったのはつい先日のような気がする。彼がたった一言ですませたのは、昼食時に同僚(特に未だに独身主義を貫いている理事長)からからかわれたせいだろう。
 氷室零一はそのままテーブルの席に着き、妻の悠里は愛用の鞄から空の弁当箱を取りだした。
「ねえ、零一さん」
「なんだ」
「随分と趣味が変わられたんですね…」
「趣味だと? そんなことあるはずがないだろう! だいたい俺は君と出会う遥か以前からの嗜好をそうやすやすと変更…」
そこまで言いかけた零一の声と表情が一瞬で凍り付く。原因は悠里自身ではなく、彼女が手にしている数通の手紙にあった。パステルカラーの可愛らしい封筒の中身はラブレターなのだと悠里は思い、零一も同じ結論を導き出した。
「凄い…相変わらずもててるんですね」
「べっ別にそのようなことはない!」
「ふーーーん」
少しも納得している様子はない。別に彼自身が直接罪を犯したわけではないが、多少の隙があったことは認めなくてはなるまい。
「まあ、そのことはあとでゆっくりと伺いますね」
「うっ…」
「早くいただきましょう、ねっ」
 
 
 
 
 食後に零一を待っていたのは、まさしくむかれる直前の林檎かおろされる直前の魚と同じ状態であった。ソファに座る妻の前で例の手紙の内容を聞かされているのだ。
「『いつか2人だけで朝を迎えてみたい…』ですって。このごろの生徒さんは随分大胆なことを書くんですね」
「…君もそれほど変わらないだろう」
「それがそうでもないんです。時々テレビに出てくる女子高生たちに向かって『近頃の若い奴はーっ』って言いますもん」
にこにこしながら悠里は手紙をそれぞれの封筒に入れた。
「気がついていました? 私がここまでいじわるをした理由」
「何がだ」
「彼女たちがこの手紙を弁当箱の袋に入れたってことです。零一さんのことだからきっと学校でもマリッジリングを外すことはないのでしょう? 結婚しているってわかっているから、わざと私の目に入るようにラブレターを入れているはずなんです」
 生徒達の本心がどこにあるのかはわからないが、平和な家庭に波風がたつことを期待はしていたのだろう。それに気がついた者と気がつかなかった者の違いが裁判の立ち位置を決定したのだ。被告席に立つ者は眼鏡を外し、額に手を当てながらも微笑まずにいられなかった。
「なるほど」
「私ももう少し考えればよかったかな? あの頃は少し真っ正直すぎましたよね。こっそり鞄の中に入れておいたなら、バレンタインのチョコレートも来客用のおもてなしに使われることもなかったんだろうな」
担任教師である人に想いを寄せる日々は毎日が緊張の連続だった。相手が大人な分背伸びはしなくてはならないし、人間的に認められなければ女性と思ってもらえないこともわかっていた。それでも年に一度のあの日には心を込めて何度か贈り物をしている。しかしはば学一年の時には実にありがたくない一言をちょうだいしている。
「あのアーモンドのチョコレートのことか?」
「え? そうです…けど…」
「非常に美味だったと言っておこう。決して甘すぎることもなく、上にかかっていたココアの苦みが口の中でハーモニーを奏でていた。寒い夜にコーヒーと共に食した記憶がある」
 アーモンドチョコは悠里が彼に贈った一年の時のバレンタインチョコだった。朝五時に起きて、弟に手伝って貰いながら作ったあの…。
「2年目はトリュフだったと記憶している。堅い表面からは想像がつかぬほど中身はソフトで、とろりと舌に馴染み…」
話題が三年の時のチョコレートケーキに及ぶ前に悠里は零一に抱きついていた。
「あんなこと言っていたくせに、しっかり食べてるじゃないですかあ!!」
「俺が君との時間の中で忘れていることなどあるわけがない」
形勢逆転だった。モテモテの旦那様に対するちょっとしたいじわるのはずが、結局一番愛されていることの再確認となってしまった。
「そんなこと言われたら許すしかないですよう…」
「初めから俺は君に許しを請うようなことは(多分)していない」
「でも許さなくちゃ私の立場がないじゃないですかー」
「だったら早くそうしなさい」
「零一さん偉そうすぎっ」
 
 
 
 
 数時間後、最愛の人の腕に抱かれながら氷室悠里は今回のことをこう結論づけた。
「仕方ないですよね。だって今のはば学には葉月くんも姫条くんも三原くんも鈴鹿くんも守村くんもいないんですもの」
「そういうことだ」
後に例のラブレターは状差しに入れられたまま忘れられていたが、年末の大掃除の際に発見されて丁寧に処分されたそうだ。
 
 
 
 
END
 
 
 
 
私の中には好きな先生像が二つあります。一つは声が裏返ってしまうほどの恋愛下手な人、もう一つは主人公ちゃんといるときの漫才コンビの人です。今回の創作ではその弱い部分と強気の部分が同時に書きたかったのでした。新婚さんは無敵というお話です。誕生日には遅れてしまったけれど、大好きな零一さんへ。
更新日時:
2002/11/20
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Last updated: 2010/8/15