365 TITLE

        
46      尊敬する人   (柳蓮二   マネージャー設定)
 
 
 
 
 
 立海大附属中学の敷地内には緑豊かな中庭があった。木々が大きく枝を広げ、芝生も美しく整理されている。四季折々の花も咲くここは生徒たちの憩いの場でもあった。出入りは自由となっているものの、そこをむやみに荒らす生徒がいないのもまたこの学校の自慢である。
「…やっぱりここにいたか」
大木の影で足を止めて溜め息をつくのは一年の学年章を付けた背の高い少年だった。サラサラの緑がかった黒い短髪は日射しを受けてキラキラと光っている。柳蓮二…入学試験を余裕のトップで通過し、入部したテニス部ではエースとしての頭角をメキメキと現し、ついでに伏し目がちの憂いある横顔は女の子にも評判が良いらしいという、なかなか完璧な御仁である。しかしそこはクールビューティーの運命というか、近寄る異性はそれほど多くはないようだが。
 そんな彼に溜め息をつかせたのは、木陰に横たわってスヤスヤと寝息をたてているクラスメートの姿だった。しかもこの生徒は午後の授業をキャンセルしてずっとここにいたらしい。スカートの下からすらりと伸びている足は相手が女の子であることを露骨に物語っている。日々恐ろしい事件が世間を賑わせている中、よくここまで無防備に過ごせるものだと蓮二も感心してしまった。そのまま足を折り曲げてその場に屈むと長いしなやかそうな指を少女の顔へと近づける。高くもなければ低くもない鼻を捕らえてそれを軽く上に引っ張った。
「んがっ…?」
寝ている時の呼吸を思いっきり乱された彼女は、まるでバネで出来た人形のように飛び起きる。
「何? 一体何があったの?」
「おはよう日生」
「柳くん? なんでここにいるの?」
 まるで小学生のような反応を見せる彼女には先に現実を知らしめた方が良いのではと思った。
「もう授業は終わっている。今は放課後だ」
「そっか、昼休みにここを見ていたら気持ちよさそうだったからつい…決してわざとサボっていたわけではなくて…」
「ノートなら明日貸してやる」
「すみません」
しかしこの少女にノートを貸そうが貸すまいが本人には何の影響もないだろう。余裕のトップで入学したのは柳蓮二、そして二位で通過したのはこの日生新菜だったからだ。蓮二が文系の雄ならば、新菜は理系の猛者といったところか。こうして呑気に眠り惚けていても教師陣からあまり怒られないのは、彼女が一定よりもかなり上の成績を常に取っているせいでもあるのだ。しかし天才に変わり者が多いという俗説に逆らうことはなく、正直クラスでもまっとうな位置にいるとはいえない。要するに限りなく浮いているのだ。
 新菜はその場に立ち上がると、起こしてくれた恩人に向かって頭をぺこんと下げた。
「これからは続きは保健室で…」
「何を考えているんだ!?」
達人の呆れた顔などそうそう見られるものではない。しかし言われた本人は罪の意識もなさげに首を横に傾ける。
「…まあいい。俺は別にお前を親切心から起こしたわけではないからな」
「なんで?」
「お前に少し話があってな」
まるでついてこいとでも言いたげに蓮二は体を翻す。新菜も今はそうするしか方法はなさそうだ。2人は中庭を出ると賑やかなテニスコートの方へと歩みを進める。
「テニス部はいいの?」
「これから行く」
「私も一緒に?」
「その通りだ」
 話があるのなら中庭で適当に済ませたっていいはずだ。そんなことを考えているうちに2人はとある建物に辿り着く。それは立海大附属中学男子テニス部の部室だった。
「入っていいものなのかな…私って完全な部外者だよ?」
「これから関係者になる」
「はい?」
蓮二は新菜の問いには答えずに、そのまま部室の扉を開けた。そして先に彼女に入って行くよう促す。
「うわぁ…」
部室の内部は思ったよりも綺麗に整頓されていた。これは女子マネージャーたちと一年の部員たちへの教育の賜物なのだろう。室内には埃の一つもなく、過去の栄光を物語る表彰状の類も綺麗に並べられていた。新菜はその偉大さに触れようと、OBたちの写真の前に立った。
「凄いねえ。こんなに古い写真まである」
「そうか」
「もう少ししたら柳くんもこの中に入るんだね。楽しみだね」
 まるでまだ夢の中にいるかのようなおっとりとした話し方だったが、その中には彼に対する本気の期待が込められている。それがわかるからこそ蓮二も謙遜したりはしなかった。
「日生、こっちに来てもらえるか」
名前を呼ばれたことで素直に彼の隣に立つ。
「…なに、これ」
それは床から天井まで届くほどの大きな本棚だった。そこには名門と呼ばれる名だたる学校から収集した資料がびっしりと並べられていた。その範囲はすでに神奈川や関東などというレベルではない。それこそが立海大附属の強さの証だった。
「全国の有名選手が持つデータを集めたものだ。現在は俺が管理させてもらっている」
「これ全部!?」
「ただ管理するだけでは意味がないだろう? こういうものは全て頭の中に入ってなくてはならない」
 その表情はやはりどこか誇らしげだ。入部して数ヶ月で彼はすっかり立海テニス部員になったのだろう。新菜は蓮二の頭脳に呆然としながらも、素直に応援したいと思った。しかしこの現状を理解するには彼女はあまりにもテニスを知らなすぎた。
「テニスって単なる球の打ち合いと違うの?」
「素人考えならそう思われても仕方ないな。見てみるか?」
蓮二は新菜の前に自分が作ったデータノートを示した。その一枚一枚には選手一人一人のデータが恐ろしいほど細かく記入されていたのだ。
「ほんのわずかな角度の差でボールのスピードも動きも変わってくる。それによって勝利の為の対策はいくらでも練ることが出来るだろう」
「凄い…」
 その言葉には二重の意味があった。テニスの世界に分析という余地があったこと、そしてその全てを目の前の彼が極めているということだ。そして蓮二は新菜がこれらに興味を示したことを感じていた。
「テニスって奥が深いんだね」
そう言う彼女の耳元に近づいて、蓮二はその無邪気な好奇心を煽る一言を呟いた。
「…やってみたいとは思わないか?」
その一言に、新菜の体も好奇心もピクッと動いた。
「私に出来るのかな」
「今回来てもらったのはその話がしたかったからだ。これまでなんとか一人でやってきたのだが、どうも限界が訪れたらしい」
なぜだかわかるか? とでも言いたげに蓮二は微笑む。新菜は少しの間考えると、小さな声でこう言った。
「レギュラー確定?」
「正解だ」
 彼に対して無礼かとも思ったが、それでも目の前でヒューと口笛を吹いてしまう。それくらいご機嫌な…というよりも奇跡に近い話なのだ。この立海大附属中学の男子テニス部でレギュラーの座を射止めるということは。しかも入部したばかりの一年生が。
「先日顧問の先生から話を受けたところだ。俺の他に精市と弦一郎も加わることになる」
すでに関東大会では負けなしと言われている立海に3人も一年が入るというのである。しかしそれはすでに全国優勝も視野に入れての決断なのだろう。それだけ3人の実力は絶対的なのだ。
「それはいつも以上に練習に集中する事を意味する。しかしこれらのデータを今更投げ出すわけにはいかない。どうしても一緒に行動してくれるパートナーが必要だ」
「でも私…本当に何もテニスの事知らない…」
 彼が自分を望んでくれているのは素直に嬉しいし、期待にも応えたいと思う。しかし無知が原因で足を引っ張っては意味がない。
「お前はそんなに物覚えが悪い人間ではないだろう? 徹底的にしごいてやるからその点は覚悟しておいてくれ」
新菜は部室のあちこちに視線を向ける。これらのデータの山、優勝旗や賞状、そして写真の中の笑顔…それらの中に自分が入れるのなら多少のしごきなど問題ないと思う。もし自分がテニス部の、そして目の前にいる人の役に立てるのならば。
「…わかった。私で本当に良いのなら」
彼女の頭の良さとちょっと怠け者の部分を天秤に計るとどう傾くかはわからなかった。しかし引き受けたと同時に蓮二の考えは理想通りに進んだも同じ事だ。
「ありがとう…感謝する」
「うん。これからどうぞよろしく」
 
 
 
 
 それ以来新菜の周りの世界は劇的なほどの変化を見せることになる。なんとなく退屈に過ごしてきた日々は一転し、授業を受けた後は男子テニス部の部室に直行するのだ。その授業もほとんどサボることはなくなっている。しかし肝心の教師の話など聞かずにテニスについての分析をしていることを知っているのは柳蓮二だけだろう。またテニス部も有能なマネージャーの入部を歓迎してくれた。特にパソコンなどを自在に扱える彼女は他の女子マネージャーたちからの尊敬の眼差しを一身に浴びる結果になったのだ。
「部活♪部活♪」
「あんた楽しそうね」
いつも一緒にいる親友がそう話し掛けてくる。この子もまた蓮二と同様にクラスでもなんとなく浮きぎみだった新菜を心配していた一人だった。もちろん今回のことにも非常に満足している。
「楽しいよぉ? テニスのことなんて全然わからなかったけれど、めちゃ奥が深いんだ」
「ついこの前まで単なる球打ちだって言い切っていたくせにね」
「それがラケットを持つ角度によって球のスピードも全然変わってくるんだよね」
 友人はテニスのことは何もわからないし、これからもわからないと思う。しかしこうして色々話してくれる新菜の顔を見ているのが嬉しかった。
「やっぱり柳くんのおかげかねぇ」
「蓮二くんのこと?」
「おっ、もう名前で呼ぶようになったか…」
「同じ部に柳生くんもいるから混乱しやすいんだって。仲の良い人はそっちで統一しているの。だからそう呼んで欲しいって」
…本当にそれだけかな…と聞いた側は思った。相当心を許しているというのはそういう意味があっても可笑しくはない。
「勉強とは別にそこまで自分の好きなことを突き詰めるのは凄いと思うよ。前からそうだったけれど、やっぱり彼のこと尊敬しているんだ」
新菜がそう言い切る以上は何も言う必要はない。激励のつもりで背中をバシッと叩いた。
「頑張ってこい!」
「ラジャー!!」
 廊下をトットットッと走って行く彼女にみんなが振り向いた。
「日生、これからテニス部?」
「そうだよー」
「頑張れよ。柳によろしくな」
「うんっ」
彼女が変われば当然周りの雰囲気も変わる。クラスでもちょっと変わり者として素通りされていた女の子は結構な人気者になって皆に声をかけられていた。それはまるで達人と呼ばれる少年によって魔法がかけられたかのようだった。
「やっほー新菜、今日も蓮二くんと一緒?」
「うん。今日は先に行くって」
「そっか。でも仲良くやんのよ」
「はーい」
 廊下を歩いている間に一体どのくらい声をかけられただろう。しかしその全員が漏れなく柳蓮二の名前も加えていた。それらにどんな意味があるのか…新菜はゆっくりと思案始める。
「私たちって、いつもそんなに一緒にいるのかな?」
「わざわざ声に出さなくちゃ結論が出ないなんて…データウーマンも案外面倒なのかもしれないね」
背後から聞こえる優しげな声に新菜の体がぴくっと動く。その反応を見てその人も楽しそうに笑った。
「その声、幸村くんだっ」
「あたり」
 幸村精市は同じ男子テニス部の一年だった。穏やかで親切な性格をしているが、その実力はおそらく全国でもトップクラスだろう。データを取る側としては大変やりがいのある相手だといえた。彼は自身のデータを一切隠さない。それこそ『どーぞ、どーぞ』と笑っているタイプの人間だ。しかし彼の実力と成長の速度が追いついて行かないのが現実だった。同じ部に所属していながらライバルのような関係が続いている。
「悩み事?」
「そうと言われればそうかもしれないの」
「察するところ…蓮二がらみかな?」
「なんせ突然沸いてきたものなので。ちょっと聞いて良い?」
「かまわないけれど」
 新菜は立ち止まると真剣な顔で幸村を見つめる。あまりにも真剣すぎて思わず吹き出してしまいそうになった。
「私と蓮二くんってそんなに繋がっているように見える?」
「…繋がっているって…?」
「なんかみんな私たちが常に一緒にいるように思っているみたい」
なんていう鈍感な娘だろうかと思わず声に出しそうになる。しかし慌ててそれを喉の奥に押し込んだ。
「まあ…いつも一緒にいるというわけではないだろうけれどね。ただ日生をテニス部に引き込んだのは蓮二だから、みんなそれで興味を持っているのもあるだろうし」
「でも幸村くんだってそう思っているよね。私の悩みを言い当てたりしたもの」
 ぼーっとしているように見えて実は相当頭は切れるタイプの少女だ。騙され易そうでありながら一時も油断はならない。それはいつも伏し目がちに相手の様子を伺っている蓮二に似ているような気がした。
「それは…2人が一緒にいるとね、なんとなくだけど自然で幸福そうなんだよ」
「そういうのってあんまり意識していないんだけれど」
「意識して出来るものじゃないだろう、そういう関係ってさ。確かに日生を変えたのは蓮二なんだけれど…本当にそれだけだとは思えないように見えてね」
「それだけって…?」
でも幸村はそのまま首を振って何も言わなかった。その気持ちを言葉にするのは簡単だろう。でも真実は自分が気がつかなくてはならない。
「でも蓮二くんには噂のこと言えないよね」
 新菜は自分の頬をぺしぺしと叩いて背を伸ばす。どうやら気合いを入れているらしい。全国を控えたレギュラーは今が一番大切な時だ。自分が彼を困らせるわけにはいかない。しかし…。
「…あいつはとっくの昔に知っているよ」
「はいっ?」
「噂のことだろう? データ主義の蓮二のことだから随分と前から知っているはずだ」
彼女の口が餌を求める金魚のようにぱくぱくとなった。
「ということは、あの人は噂とか全部知っていた上でいつもと変わらないようにしていたってことですか?」
「そうだよ」
 いともあっさりと言い切ってくれた。しかし不思議なことに新菜の胸にはショックよりも重苦しい悲しみの方が支配している。
(私って…蓮二くんのことをどう思っているの?)
初めて自分の胸にそう問いかけてみた。しかし答えを出そうとすればするほど苦しくなってくる。
「先に行くよ。落ち着いてから部室においで」
「うん…」
幸村の姿が小さくなってゆくのを無言のまま見送る。それが見えなくなると同時に頬に冷たい何かが伝うのを感じた。
(蓮二くんは…私のことをどう思っているんだろう)
 
 
 
 
 蓮二と新菜が練習終了後の部室に居残りすることはそれほど珍しいことでもない。レギュラーとしての練習は決して甘くはない分、2人がゆっくりと話を出来るのはここでしかなかったのだ。部室の中央にある大きなテーブルに自由自在に互いの持ち寄ったデータを広げる。
「先日偵察に向かった学校のデータなんだがな…」
「はいっ」
新菜の体がいつも以上に飛び上がる。どうも様子が可笑しい…それに気付かないほどこの男は甘くはなかった。
「どうも集中力が欠けているな。今日はこれまでにしておくか?」
「そんなことはないよっ。そんなことは…多分…」
この子は嘘がつけないところが長所であり、また短所でもある。集中力が欠けていると自覚もしているだろうし、その原因が柳蓮二にあるのも顔に全て書いてあった。
「悩み事か」
「悩み…というか」
 まるで刑事が犯人を取り調べているようだと蓮二は思う。俯き始めた彼女に対して言ってやる言葉が見つからない。
「知ってる? 私たちのこと結構噂になっているみたいだよね」
「そのようだな」
「知っていたの?」
「まあな。でも今更気にすることでもあるまい? 今のテニス部にお前は必要な存在だ。それに下らない噂もすぐに風化する」
資料を手元に揃えながら、何でもないようにそう言ってのける。しかしその言葉が彼女の涙を引き出してしまったことは予想の外のことだった。
「日生?」
「蓮二くんのそれが本音? それでいいの?」
ぽろぽろと無防備に涙を流してしゃっくりを上げている。彼にとって自分の存在が特別だったなんて考えたことはなかったけれど、それでもあっさり言い捨てられると悲しみを止めることは出来ない。
 すると突然新菜の頭がぽんぽんと軽く叩くような感触を覚える。
「…新菜」
その声に息が止まりそうになる。初めて呼ばれた自分の名前は、これまでのどんな言葉よりも優しく響いた。
「蓮二く…」
そしてはっと見上げた姿もこれまで見たこともないものだった。自分を真っ直ぐに見つめる琥珀色の瞳…しっかりと目が開かれていたのだ。
「お前が相手ならば、俺は別に噂になってもかまわないと思った」
「えっ?」
「そのままの意味だ。お前が相手なのなら、俺は一向にかまわない」
 最初彼が何を言っているのかがわからなかった。しかし綺麗な目を開いたままクッと微笑まれると、体がまるで炎を放たれたように熱くなる。
「えと…本当に?」
「嘘をついてどうする」
「そうだろうけれど…」
「気持ちが落ち着いたのなら、もうしばらくは話していけそうだな。では次のデータにいくぞ」
「はっ…はい」
彼は再び目を伏せると改めてノートを開いた。なんか色気もそっけもない幕切れのように思えたが…。
「新菜?」
自分をそう呼ぶ声が、さっきの蓮二の本音が嘘ではないことを教えてくれる。
「ううん、なんでもないの」
そう言いながら軽く首を振る新菜もわかっていたのだ…彼が動く指先の落ち着きなさから、2人の関係がもう『友人同士』というものではなくなったことに。
 
 
 
 
END
 
 
 
 
たとえばこんな出会い編の柳バージョンでした。初めて彼の話を明るい雰囲気で書いた気がする。でも出会い編=2人とも一年生という設定の…筈。やっぱり私が持つこの人のイメージは常に大人なんだなあ。
 
 
 
 
イメージソング   『太陽がいるから』   MISIA
更新日時:
2005/06/15
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Last updated: 2010/5/14