365 TITLE

        
39      もういないあなたへ   (真田弦一郎   マネージャー設定)
 
 
 
 
 
 あかね色の夕日が射し込む廊下に一人の女子生徒の影が長く伸びた。ゆるいウェーブがかかった長い髪を揺らしながらトットットッと走ってゆくのは三年生の日生新菜であった。日頃冷静な判断力を忘れない彼女にとっては珍しく、その様子はひどく慌てているように見える。
「まったく…こっちは日誌を置きに行っただけなのに、あの女史ったら!」
新菜が女史と呼んだのは自分のクラスの担任である年輩の独身女性教師のことだ。このあだ名はもう数代は前の先輩からの馴染みであるらしく、それに相応しい口うるささでも有名なのだった。本人の言葉の通りに日直としての最後の仕事を終え、日誌を提出しすぐに教室へと戻る予定が、進路のことであれこれと口出しをされてしまい結構な足止めをくらう羽目になってしまった。
「文句を言われるほど悪い成績じゃないと思うんだけれどな。ほんの少しでも隙があればすぐにツッコミが入るんだもの」
 ブツブツと愚痴を言ってみたものの、部を引退した今は何処ででもこういった話題が持ち出されるものだ。あの賑やかだった夏が嘘のように思えて寂しくなる。
「…まあこんなことは弦一郎には言えないか。『たるんどる!』の一言で済まされちゃうしね」
自分で言いながら、何故か新菜は一人でクスクスと笑い出す。そりゃそうだろう…厳しい担任と大切な彼氏の言葉なら、同じ意味があったとしても心地よさがまるっきり違う。
「でも随分待たせちゃったな。弦一郎怒っているかも」
 独り言を口にしながらも足は彼女なりに急いでいるのはそれが理由だった。2人は部を引退する以前からずっと一緒に帰宅していたのだ。どちらかが用事の為に校舎に残っていたとしたら、どちらかが必ず教室で待っているのが習慣だった。
「ごめんね弦一郎…女史にちょっと捕まっちゃって」
待たせたすまなさからか、遅れた理由を素直に述べながら教室の扉を開ける。そこには待ちくたびれて自分に怒鳴りつける彼がいるものだと思っていたが…。
「弦一郎…?」
確かに彼…真田弦一郎はそこにいた。誰もいない教室の中で、しかしじゃあ新菜を待っていたのかというと…それは少し違うように見えた。窓側に立ち、手をズボンのポケットに入れたまま、しかしその目ははるか遠方を眺めている。
(テニスコートを見ているんだ…)
 部を引退してどのくらいが過ぎたのだろうか。『あっと言う間』でありながら『ひどく長い』という毎日が続いている。しかし男子テニス部は後輩への引き継ぎも問題なく行われ、すでに来年度に向けての練習が開始されていた。それを遠くから見守ることしか出来ない苦しみは彼にしかわからないだろう。
「弦一郎」
何度目かの呼びかけにようやく彼は振り向いてくれた。
「遅かったな」
「ごめんなさい。先生に呼び止められてちょっとね。進路のことで色々言われて…」
新菜は先程少しだけ言いかけた理由を再び口にする。それはいつもと少し様子の違う彼から『たるんどる!』と叱られたかったからかもしれない。
「そうか…まあ時期だからな」
「うん」
 少し肩すかしのような気分で新菜は弦一郎の方へと歩み寄って行った。その隣に立つと、同じように窓から外を眺める。
(やっぱり…)
そこには二年生が中心となって練習を開始している男子テニス部の姿があった。彼等の声は遠いはずのここまで届いてくる。特に部長という座を一緒に引き継いだ後輩の声はひときわ大きく…しかしそれらは大きな硝子の窓に阻まれていて、もうそこへは行けないのだということを強く印象づけた。そう思うと全てが信じられないような気がする。あそこに自分たちがいたということも、そして今の自分たちがあそこにいないということも。
「弦一郎…」
「どうした?」
その返事にもどこか元気はなく、彼に向けた新菜の微笑みも悲しみを帯びた感じになってしまった。
「どうしてテニス部に顔を見せないの?」
 確かに三年生は部を引退してしまったけれども、それでもテニスを愛する気持ちは消えようがない。弦一郎が残された後輩たちのことも誰よりも心配していることなど皆が承知していることだ。しかし彼はあれ以来決して部へと向かおうとはしなかった。
「赤也たちだって待っているよ? まだまだ教わりたいことが山のようにあると思うけどな」
「いや…」
彼はそのまま首を横に振る。まるで自分自身にも言い聞かせるかのように。
「引退した者がのこのこと出向いてどうなるのだ。赤也たちはすでに自分たちのチームを作ろうとしている」
「でも附属高の先輩たちはいつでも相手をしてくれているじゃない」
お互いの力を磨きあう事を目的とした附属高校との練習試合は、それこそさかんに行われている立海男子テニス部の名物でもあった。
「事情が違う。俺達はまだ卒業していないのだからな」
 自分たちの置かれた立場を思い、新菜も深い溜め息をつく。大切なことは忘れられぬまま受験の体勢に入ってしまうというのは、ここまで気持ちが揺らいでしまうのだと初めて知った。
「すまない、愚痴のようなことばかり言って」
「ううん…」
2人はしばらくそのまま無言で立ちつくしていた。そんな中でもコートでは厳しい練習が続いている。
「以前に附属高との練習試合を行った時」
突然隣から聞こえてきた言葉に新菜はハッと我に返る。
「一度だけ錦先輩と試合をしたことがあった」
その名前と同時にあの優しかった先輩の姿が脳裏に蘇ってくる。実力は弦一郎に及ばなかったものの、それでもテニスと仲間と立海を愛し、新菜にも気さくに声をかけてくれる人だった。
「その時の俺は自分の力を相当過信していたのだろうな。先輩に対して随分と失礼な事を言ってしまった。腕がなまっているのではないかとか、我々に勝てるはずがないとか」
 その時の出来事は新菜の記憶の中にもうっすらと残っていた。それは彼の実力に裏付けられた言葉だったから先輩たちも何も言えなかったのだろう。しかし内心では苦笑していたに違いない。負けた側とて全国制覇の原動力となった存在だったからだ。しかし今の弦一郎の顔はあの時の錦先輩の表情と似ている気がする。出してしまった言葉がもう戻らない以上、回想するのも辛いに違いない。
「だが今なら先輩たちの気持ちがわかる。俺もいつ赤也からそう言われてもおかしくはないのだからな」
「弦一郎!?」
それは…もしかしたら初めて聞くかもしれない彼の弱気な声だった。しかし聞いた側はその場の空気が砕けてしまうほどの強い衝撃を受ける。新菜は我を忘れて彼の腕にしがみついた。
「新菜…?」
「どうしてそんな悲しいことを言うの?」
 こういう場面でも決して涙は流さない少女だ。涙よりも伝えたい言葉を何よりも大切にするタイプの人間だった。
「弦一郎がそんなこと言うなんて、錦先輩や赤也は望んでいないよ。先輩はきっと附属高校で弦一郎が上がってくるの待ってくれてる…これでインターハイでの全国優勝はいただきだってね。あの人は負けたとしてもそういう前向きな考えが出来る人だったもの。それに赤也は確かにもの凄く優れた選手だけれど、突然部長という大役を任されて不安になっていないはずがないよ。部長不在のテニス部を支えてきた弦一郎ならその気持ちもわかるはず。それを一方的に突き放してしまうのは可哀相」
彼女の手は胸元のネクタイをしっかりと掴み、そして必死といった感じで語り続ける。その体を抱きしめると小刻みの震えと激しい鼓動が交互に打ち付けてきた。
「ごめんなさい…お説教みたいなこと言って」
「いゃ、かまわん。もしかしたらそういうことを誰かに言って欲しかったのかもしれん」
 あかね色の光が射し込む中、2人の影はしばらく重なったまま動かなかった。
「いつでもそばにいるよ?」
「…ああ」
「きっと今はみんながそう思ってしまう時期なんだろうね。悔しいけれどさっきの私だってそう。でもそれは全部時期のせいにしてしまって、早く元気になってね」
それからしばらくの間は無言のまま抱き合っていた。しかし誰かが廊下で話している声を聞いて我に返る。
「…帰るぞ」
「そっそうだね」
 机の上に置いたままになっていた鞄を手にして2人は教室を出る。しかし前を行く新菜の足が突然止まった。
「どうした?」
「帰る前にちょっと寄りたいところがあるの。付き合ってくれないかな」
新菜の笑顔は優しげに見えたが、それでも相当意味深だった。
「お前…どこに行くつもりでいる?」
「男子テニス部」
「なっ、お前さっきの俺の話を聞いていたのか!?」
更に言葉を続けようとする弦一郎の手を握りしめた。
「もういいじゃない」
「新菜?」
「一度だけでいいから行ってみよ。ただ見ているだけで気分も違ってくるはずだから」
繋がった指はそのまま彼女の方に引っ張られてゆく。
「拒否権は行使しないでね。ほら、急いで!」
「お前という奴は…」
彼の溜め息はそのまま彼女のクスクス笑いの中に溶け込んでしまい、そのままの状態で廊下を歩く羽目になる弦一郎だった。
 
 
 
 
 
 
 こうして弦一郎は新菜の手によって半強制的にテニス部へと連れ出されそうになるが、不思議なことにここでも立海男子テニス部はチームワークの良さを発揮していた。隣の教室で同じように夕焼けに染まる練習風景を見つめていた達人に声をかけ、三人で階段を降りると図書室の前で紳士と呼ばれたレーザービームの使い手と出会う。一緒に外に出ようと生徒玄関に向かうと、そこではかつてのD2がいつものように漫才をしていた。
「どっか行くのか? みんなそろって…」
「テニス部見物? 行く行く。俺らも行く」
「…もう俺が行くことも決定かよ」
 みんなが中庭に辿り着いた時、銀髪の後ろだけを長く伸ばした詐欺師が、ぼんやりと空を見上げている。テニス部に行くと告げるとまるで自虐的だとでも言いたげに微笑んだが、それでも全員の輪の中に何も言わずに加わった。そして…。
「おや、あそこで赤也と話をしているのは…」
「幸村じゃん」
フェンス越しに楽しそうに話をしているのは三年の前部長と現在の二年生の部長だった。
「あれー!? 先輩たち全員おそろいで…すげーや。幸村部長…じゃなくて先輩が言った通りだ」
「そりゃあね。まあみんなそれぞれ限界だったってことだよ」
全てを承知していたかのように幸村精市はフフッと笑っている。
「だってそうだろう?」
 
 
 
 
 ー俺たちはいつでもここに 集まることになっているのだからー
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
もうここにはいないあの人は、それでも再び出会える人でもあります。錦先輩は優しく迎えてくれるそういう先輩であって欲しいな。
 
 
 
 
イメージソング   『SO YOUNG』   THE YELLOW MONKEY
更新日時:
2005/05/25
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Last updated: 2010/5/14