365 TITLE

        
36      銃   (仁王雅治   同学年設定)
 
 
 
 
 
 神奈川の立海大附属中学といえばスポーツの名門校として広く全国に知られている中学である。運動関係の部に入った中学生は必ずと言って良いほどこの名前を聞かされ、結局はへへーっと恐れ入らなくてはならないという一種の鬼門であり、とにかくあらゆる面で規格外の力を誇る学校なのだ。しかしここがスポーツ以外の部活動に対して手を抜いているのかというと…実はそうでもなかった。文化部の方もまたあらゆる人材が前ならえ状態で揃っており、世間を賑わせている。マスコミに登場する文化人という人間が大抵ここの卒業生だというのは有名な話だ。
 春の爽やかな風が吹き込む日曜日…そういった規格外の部の一つが今日も音楽室で練習を開始していた。一度コンサートが開かれたら数百円のチケットが一気にプラチナ化することでも知られている吹奏楽部だった。
「あーあーっ、もうやってらんないっ」
「大丈夫ですか? 日生先輩…」
心配そうに見つめる後輩たちを尻目に、日生新菜は愛用のアルトサックスを置いてしまった。
「こんないい天気の日に一つの部屋に籠もっているのって、正直たまんないわよ。休憩しよっ」
甘えた声を出しても同意してくれる者はいない。
「まったく…洒落が通じない連中ばっか集まったもんね」
「この楽譜の山を見れば誰だって嫌でも正気に返りますよ」
 彼らの言うとおりに、山と積まれたコンクール用とコンサート用の楽譜が休憩を許してくれない。近いうちに高校・大学と合同で開催される海原祭の時に結成されるオーケストラのオーディションも始まるし、スポーツの大会があれば応援に駆り出されることも多い。おそらくはここが校内で一番忙しい部なのだろう。
「仕方ない…場所変えよ」
「どこ行くんですか?」
「ここじゃないところー。チューニングが始まる頃には戻ってくるから、先生によろしくね」
まるでこの時を待っていたかのようにせっせと荷造りを開始する。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「そんなっ、先輩!?」
「それじゃ頑張ってねー」
 
 
 
 
 仲間の前で堂々とおさぼり宣言を成し遂げた日生新菜という少女…一応は吹奏楽部の副部長を務めているらしい。音楽家としての実力は部でも認められているからこそ、こんな突飛な行動も見逃してもらえている部分があった。もっともたまーに行うから許されているのだということは周りも本人も充分に自覚してはいたが。また長い黒髪をツインテールにして制服のネクタイの代わりにサックスのストラップを下げているあたりは、変わり者だと思われても仕方のない状況を作り出しているとも言えなくもなかった(自分が普通の女の子だと固く信じているのは新菜だけである)。そんな彼女が音楽室から移動してくる先…実は一つしかない。似たような入り口が並ぶ廊下を軽快な音をたてて走りながら、そのうちの一つに潜り込む。
「誰もいないよね? ラッキーッ」
 部活の関係で休日でも登校している生徒は多いが、ここはそれが嘘であるかのように静まり返っている。新菜はそれを振り切るようにして大きく窓を開け放った。
「…ここからだとテニスコートがよく見える…」
 男女共に全国制覇を目指しているテニス部も、休日を練習の日にあてているようだ。眩しい光にさらされてオレンジ色のユニフォームが輝いて見える。
「頑張ってるなあ」
窓際の席に座ってそのまま頬杖をつく。しかしその目は絶えず誰かを探しているかのように彷徨っていて…。
(…いた!!)
それはテニスコートの中央にいる銀色の髪の少年だった。後ろの髪を少し伸ばして赤い紐で縛っているのですぐにわかる。
(あのしっぽって、まるで生きているみたいに動いているもんなあ)
 クスクス笑いながらも、何故か心に空しさが広がって行く。やがて口から苦い溜め息が零れたとしても、相手には届かないのだ。
(仁王くん…)
あのテニス部でレギュラーの座を射止めた男だった。現在音の世界と同じくらいの位置まで心の比重を占めた想い人でもある。ただ…それはあくまでも切ない片想いであって、それ以上になれないことはわかっていた。だからわざわざ部を抜け出してこんなストーカーみたいな真似をしているのだ。
「コート上の詐欺師だもんね。まるっきり天の上の人…仕方ないか」
 あまりにもその片想いが長すぎて、彼を好きになったきっかけさえ記憶の彼方に存在している。抜群のルックスだったかもしれないし、テニスの実力だったかもしれない。詐欺師とまで呼ばれる一筋縄ではいかない性格だったかもしれない。それらの間から見える素直な笑顔だったかもしれない。でもそれのどれが欠けても仁王雅治にはならないのだ。新菜にとってまだ幸いしているのは彼が女の子全般にあまり興味を示していないということ。遊び人だという噂は確かにあったが、いずれの内容も現実味には欠けていた。
(きっと今はテニスが一番大切なんだろうなあ)
 それは自分にとっての音楽と同じなのだろうと思う。勝手かもしれないが、それが彼と自分の共通点のような気がして時々こうして元気をもらいに来るのだ。
(この気持ちはずっと言えないままなのかもしれないけれど…)
新菜は指でピストルの形を作り、その標準を銀髪の少年に定めた。
(せめてこれくらいのことはさせてね)
「ばきゅーんっっ」
 しかし次の瞬間信じられないことが起こった。それまで完全に新菜に背を向けていたあの男がこちらへと振り向いたのだ。しかも口元にニヤリと笑みを浮かべながら。
「…えっ!?」
新菜の体も思考も石のように固まり動かなくなった。しかし心臓の音だけがやかましいくらい全身を駆けめぐる。そんな体をギュッと抱きしめてそのまま座り込んでしまった。
(目が合った? どうして?)
単なる偶然か、もしくは別なところを見ていたのか…自分に必死に言い訳をしてみても、胸の高鳴りが止まることはなかった。
 
 
 
 
 ぼんやりと校舎を見つめているチームメイトに彼は声をかけた。
「…一体何をしているんですか」
「おー、柳生か」
直射日光を翳した手で遮りながら、仁王雅治は先程のようにニヤリと笑った。
「可愛いうさぎがおっての」
「うさぎ?」
真面目な性格の柳生比呂士は、そのことについて嫌でも考えてしまっていた。相手が自分をからかっているのだとわかっているのにだ。
「この学校に飼育小屋はないと思いましたが」
「そうじゃろね」
「生物部の部室もこちらではありませんね」
「まったくもって、そうじゃけ…」
 これ以上の会話は無意味かもしれない…そう思って早々に彼に背を向ける。本人はまだ校舎を見つめていた。
「その可愛いうさぎちゃんがのう」
「…まだ言いますか?」
「ピストルで撃ち抜いたんじゃ」
「何をです?」
「俺のデリケートな心臓を」
しばしの空白の後、柳生は雅治の前に回ると慌てて額に手をあてた。柳生内科の跡取り息子はそういう仕草さえ見事に決まる。
「熱はないようですね」
「わかったんならもうええじゃろ」
 何かを企むような笑顔はそのままに、雅治は大きく手を挙げた。
「真田ふくぶっちょーっ」
「なんだ、仁王」
帽子を被った威厳のある少年が振り返った。
「便所行きたいッ」
コート内に大きな声が響く。他の部員たちの視線が一気に真田と雅治に集中した。当然真田も断り難くなるわけで…。
「早く行って来い」
「ハーイ」
とても何かを我慢している様子のない彼を柳生は…やはり何かを考えながら見送った。
 
 
 
 
 どうしよう、どうしよう、どうしよう…新菜はまだ座り込んだまま震えていた。恥ずかしさのあまり逃げ出すことさえおぼつかない。
(とっとにかく落ち着くのよ、私!!)
自分と仁王雅治の距離がものすごく遠いことなど新菜自身が一番わかっている。きっと目が合ったのも単なる偶然で、彼は自分の名前どころか存在も知らないだろう。たとえ廊下ですれ違ったとしても、今回の出来事を彼から咎められるとはとても思えない。
「とっとにかく音楽室に戻ろう」
床に散らばった楽譜を集めて胸に抱き、サックスのケースを手にして立ち上がる。ようやく逃げの体勢でドアの前に駆け寄ると、目の前でなぜか勝手にそれが開いた。
「…よっ」
「にっ、仁王くんっっ!?」
 ついさっきまでコートにいた人がどうしてここに? 新菜の頭は本格的にパニックを起こし、逃げることも忘れて口をパクパクさせている。もちろん目の前の詐欺師様はそれを面白そうに見つめていた。
「もう行くんか? 折角会いに来たのに」
「会いに…って…」
「さっき俺の心臓をこうしたじゃろ?」
自分から指でピストルを作り、新菜の胸をめがけて放った。
「ばきゅーん!! …ってな」
「みっみみみみみ見てたのおお?」
「そりゃあもう。バッチリと」
 真っ赤になった顔は目が合った瞬間から戻りようもなく、そんな中でも『どうして見えたんだろ…』と思わずにいられない。
「責任、とってもらえるか?」
「なん…の責任…?」
「そんなん決まっとる」
一人が教室に一歩足を踏み入れたのなら、もう一人の足は自然と後ろに後退する。それを繰り返しているうちに新菜は自分の背が窓のある壁にぶつかるのを感じた。
「ごめんなさいっ」
「…は?」
「ただ見ていただけなの。でもそれが仁王くんに迷惑をかけるなんてわかっていなくて…ごめんなさい」
目を閉じて何度も頭を下げる。そのたびに雅治が『うさぎ』と呼んでいたツインテールが激しく揺れた。
「…知っとったよ」
「はい?」
「ずっと俺のこと見てくれていたこと、知っとったよ。日生新菜ちゃん」
 自分の名前を呼ばれてようやく頭を上げる。ここで二人はお互いの顔を初めてまともな形で見つめる。雅治の表情は怒っているでも企んでいるわけでもなく、とても優しいものだった。
「どうして私の名前…」
「初めての公式戦の時、応援に来てくれたの覚えとる? ブラバンの一員として」
「あっ…」
記憶の糸がゆっくりと解けてゆくのを感じる。それほど大きな大会ではなかった気がしたが、それでも世間は初めて仁王雅治という存在を知ったのだ。
「そん時俺の試合を見ながら泣きそうな顔してての。この子泣かすわけにはいかんと思って、とにかく必死じゃったけ」
「私のことを見て…?」
「そう。それからずっと見てた。この子がおってくれたらどんなことでも出来るって、自分になんべんも言い聞かせてきた。そしてここの教室からずっと見とってくれたのが嬉しくて…」
今度は雅治の方が頭を下げる。
「驚かせてすまんの。でも俺ようやっと言える…新菜ちゃんのこと、本気で好いとお…」
こんな時でもやはり銀色のしっぽはぴくんと意志があるように動く。それを見ながら新菜はこれが夢ではないことを知った。思いがけないほどの不器用な告白に、胸が掴まれたかのように痛くなる。
「私もずっと好きでした。ずーっと思っていたの、仁王くんの胸にこの気持ちを打ち込めたらいいのにって。責任とれるかどうかわからないけれど…ただ好きでいることしかできないけれど、それでもいいのなら…」
「もう充分すぎ」
雅治は腕を伸ばして、そのまま強く新菜を抱き寄せた。
「あとはお楽しみ…ということで」
 
 
 
 
 
 もうそろそろ戻ってきてもいい頃だ…と真田弦一郎が思い始めて随分と時間が流れた。もちろんそれは自分がトイレタイムを許可した仁王雅治のことである。しかし本人は一体何をしているのか、一向に戻ってくる気配はない。ついにしびれをきらした副部長は一人の部員に声をかける。
「柳生…」
「なんでしょう?」
「仁王はいつ戻りそうだ?」
そんなことを彼に聞いてもわかろうはずがない。ダブルスだからといって以心伝心的に物事に通じているわけではないのだ。
「どうでしょうね。先程からうさぎに銃で撃たれたような話をしていましたから」
「うさぎが…銃だと?」
 真田が絶句するのも無理はない。柳生でさえ先程まで何のことやらと考え込んでいたのだから。
「確か真田くんのクラスに吹奏楽部の副部長がいましたね」
「日生のことか?」
「うさぎというのを聞いて思い出したんです。彼女の髪型はそれを思い出させますしね。可愛いかどうかは個人の好みなのであえて申し上げませんが…ただ吹奏楽部の応援があるとなしでは仁王くんのプレイが微妙に違う気はしていましたから、彼女のことを気に止めていたのは間違いないでしょう。これは柳くんの過去のデータで充分に裏付けられる筈です」
短時間でここまで推測したとは…流石ミステリー小説マニアはどこか違う。
「撃たれたという場所を心臓に限定していたのは恋愛感情がそこにあったと思われます。校舎を眺めている間に偶然彼女と目を合わせたといったところでしょうかね」
「…お前の言いたいことはよくわかった」
言葉を遮った皇帝とまだまだ言い足りなさそうな紳士の間に、『ピヨッ』とも『プリッ』ともつかない微妙な空気が流れた。
「それで仁王はいつ戻ってくるのだ?」
「戻ってくるとお思いですか?」
数秒後、真田弦一郎の断末魔の叫びがコートに響いた。
「たっ、たるんどるぞっ!!!」
 
 
 
 
「なんか、真田くんが怒っている声が聞こえる…」
「ほっとけ」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
それは多分『友達』じゃない『特別』な視線…という話。
 
 
 
 
イメージソング   『HELLO』   福山雅治
更新日時:
2004/06/30
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Last updated: 2010/5/14