365 TITLE

        
33      壊れ物注意   (海堂薫   女子中学生設定)
 
 
 
 
 
 『青天の霹靂』というのはこういうことを言うのだろうか。驚く半面、そんなことを冷静に考えている自分も少なからず存在していて…とにかく彼は目の前にいる発言の主をじーっと見つめる。
「…今、なんと?」
「デートをしないか、と言ったんだ」
そう言って彼は愛用の逆光レンズ付きの眼鏡を上げる。乾貞治…尊敬するテニス部の先輩であり、同時に校内でも広く知られている折り紙付きの変人でもある。自分にはそんな趣味は欠片もないが、この人の場合は一体どこに本心があるのかわかったものではない。
「悪いんスけど俺…」
「俺の知り合いの女の子なんだけれどね」
「…はい?」
本気でボケたのか、それとも自分をからかっているのか…やっぱりその本心は見えてこない。
「海堂?」
「いや、何でもないっス」
 話を改めて仕切り直すつもりで乾貞治氏はこう語る。
「俺の知り合いの女の子で、年はお前と同じ中学二年生だ。私立のミッション系の女子校に通っている。そのせいか…まあ男子に対する免疫はまるっきりないと思っていい」
「断らせて下さい」
即答だった。それはそうだろう。この人もデータマンを名乗るくらいなら、この自分が校内の女子生徒たちにどんな評価をされているのかわかっているはずだ。人の顔を目撃しただけで逃げ出す失礼な輩も多いくらいのなのに。これほど『デート』という単語が不似合いな人間もそうそういるまい…海堂薫自身もそう思っていた。
「他にいくらでも引き受けてくれる奴なんているんじゃないスか」
 それが言い訳になると考えた。というよりもそれ以外に理由なんて必要だとは思えなかった。
「海堂」
乾の声がいつもよりも冷たく響き、海堂は恐ろしさのあまり数歩後退してしまった。
「これらのことはすでに決定した事項だ。お前に拒否権はないものだと思ってくれ」
「なっ!?」
「もし嫌だと言うのなら仕方ないな。アレに『サンマ』と『アジ』を加えるしかないか」
背中にスーッと冷たい汗が流れてゆくのを感じる。思い出すことさえ苦痛なあの汁を、よもやこんな駆け引きの材料にするとは。あんただってこれに良い思い出なんてないだろうに。
「決定だな。今度の日曜日に駅前で午前九時頃待ち合わせをしよう。彼女は俺が連れて行くから心配しなくてもいいよ。まあ行き先は映画あたりが一番良いとおもうのだけれど…それについても用意はこちらで済ませるよ。手ぶらで来てくれてかまわない」
乾は制服に着替えると、そのまま何もなかったように部室を出ていった。そしてえらいことを突きつけられた少年だけがこの場に残されたのである…なまんだぶ。
 
 
 
 
 彼にとって幸運だったのは、本番まで数日の猶予があったことだろう。厄介なことに巻き込まれた自覚はあったが、だからといって自分に出来ることなど限られているだろう。緊張をしたとしてもプレッシャーに押しつぶされそうになるほどのやわな精神力の持ち主ではない。
(まあ顔を見て逃げられた時はその時で…)
などと余計なことを考えて落ち込んだりはしたけれど。
 当日の空は抜けるように青く、まさにデート日和といった感じだった。とりあえず知らない人間に会うのだから…ということで新しいGパンを出し、真っ白なシャツに袖を通す。バンダナについてはしばらく考えた末に折り畳んでポケットに入れた。
「手ぶらでこいと言われたが、まさか本当にそうするわけにもいかねぇ」
少々の蓄えを持って、母には『友人たちと会うから』と言い、そのまま外に出た。
 駅前までの道のりはそれほど遠くはなく、約束した時間よりも早く着いてしまった。とりあえず見つけてもらいやすい目立つ場所に立ってフーッと息をつく。いつも別な男友達と待ち合わせする時は気がつかなかったが、自分の前を行き来する恋人たちの姿は想像以上に多いものだと思った。仲良く一緒に歩く2人もいれば、少し喧嘩っぽい状況の2人もいる。特に無事出会えた相手に向ける安堵の表情は微笑ましいくらいだ。あの中に自分が加わるというのが不思議な気がする。
(一体どんな奴なんだ…?)
それはずっと考えていたことだった。乾もせめて顔写真くらいは用意しておいてくれてもいいだろうにと思う。おかげでこれを良い方に考えるべきか、それとも悪い方へ考えるべきか…彼は未だに悩んでいるのだった。
「海堂…」
「うわあっ!!」
 背後から突然聞こえてきた声に飛び上がる。なのに言った本人が特に気にも止めていないあたりが妙に悔しかった。
「せっ先輩?」
「随分と待たせてしまったようだな。すまなかった」
「あまりすまなそうな顔に見えないんスけど」
「…まあお前が早めに来ていることは予想の範囲内のことだったからね」
絶句する海堂を尻目に乾は自分の真後ろへ振り向く。
「出ておいで」
 そう言われてひょこっと顔を見せたのは、焦げ茶色の髪の毛を二つに束ねた大きな瞳のとても可愛らしい女の子だった。
(しょっ、小学生…?)
相手に失礼だとは思いながら、海堂の相手への第一印象はこんな感じだった。もちろん中学二年生であることは教わっていたが、どう見ても自分より弟の世代に近いのではないのだろうか。それを口にすることはなかったけれど。
「はっはじめましてっ」
女の子はペコンと頭を下げる。ほんの少し緊張した感じで、頬は薔薇色に染めて。
「自己紹介は出来るね?」
乾に言われた女の子はこくんと頷いた。
「日生梨緒です。どうぞよろしくお願いします」
「ああ…海堂だ」
 女の子とこうして満足な形で会話をするのも久しぶりだと思う。しかし何故この子が自分を怖がらないのかが不思議でならない。
「映画のチケットは持った? 財布は?」
「ええと…あります。持っています」
「何かあったら必ず電話するんだよ。俺も新菜と一緒にすぐ近くにいるからね」
「はい!」
なんという会話だろうか。本人たちは兄妹のようなつもりなのだろうが、正直親子だと例えてもいいような気がする。こんな乾貞治を見ることが出来るなんて…長生きはするものだと思った。
「それじゃ海堂、この子のことをよろしく頼むよ」
「ウス…」
 
 
 
 
 乾はそのまま立ち去ってしまい(間違いなくどこかで覗いているのだろうが)、あっと言う間に二人きりになってしまった。人混みの中にぽつんと置き去りにされたような気になって、今更のように慌ててしまう。
「…おい」
「はっ、はいっ」
「これからどこに行くんだ」
そう問われた梨緒は、慌ててポシェットの中から二枚のチケットを彼に差し出す。
「映画なんですけれど。その…席も予約してあるんです」
一体どんな話に付き合わされるのかと思いきや、その内容は以前から彼自身もチェックしていたアクションコメディーだった。もしかしたらそれもデータのうちに入っていたかもしれないが。
「行くか」
「はいっ」
 海堂が先を歩き、2歩ほど後ろから梨緒がついてくる。本人たちにとっては緊張感でそれどころではないだろうが、その様子は初々しくて微笑ましい光景に見えていた。映画館はここからも近くて時間も間に合うよう無理なく設定されている。
「なあ、聞いてもいいか」
この空気にたまらなくなったのか、海堂は梨緒にこう問いかける。
「なんですか?」
首を少しだけ横に傾けて話す仕草は室内で飼われている小型犬のようだ。思わずその可愛さに負けそうになってしまうが、とにかく一番気になることを訊ねることにする。
「乾先輩とは…その…」
「乾さんですか?」
 自分に弟がいると言った時に本当に羨ましそうにしていた彼は、自他共に認める一人っ子だったはずだ。もしこんな妹を隠していたとしたら犯罪の臭いさえしてくる。そして問われた梨緒もまた複雑な顔をしていた。本当に言ってもいいのかな…でも後でわかっちゃうことかもしれないし…と色々思案しているようだ。
「乾さんて、姉の恋人なんです」
「…は?」
「えっと、3つ上の姉がいまして。乾さんとお付き合いさせて頂いています」
「3つって、こうこうせい…?」
「はいっ」
 そうきっぱりと言い切る女の子の顔を海堂は…例の女の子がすぐに逃げ出してしまいそうな強い眼差しで見つめる。こんな可愛い容姿の女の子の姉ならば、相当な美人であることは間違いないだろう。そんな人が何故あの男と…と言うのは失礼だが、それでも思わずにいられない。
「悪りィ。俺、そういうこと全然知らなくて…まさかあの先輩に…」
でも梨緒はそれらの言葉に不快感は抱いていないらしい。
「やっぱり汁ですか?」
「知ってんのか!?」
「この前姉からレシピを見せてもらったんです。でも…ものすごい内容だったので、3日間くらい何も食べられませんでした」
こんなところでも迷惑をかけていたのか、恐るべし汁!!
「悪かったな…迷惑をかけて」
「そんな、海堂さんに責任はないですよ。それにテニス部の皆さんは実際に飲んでいるんですよね…尊敬します」
 話の内容はどこか苦痛を伴うものだったが、それでも2人の足取りは少しだけ軽くなった。初対面ゆえの堅苦しさがなくなったのだろう。あの汁も時には面白いことをする。
「その…海堂さんはやめてくれ。ガラじゃねえ」
「なんて呼べばいいんでしょう」
「普段はなんて呼んでんだ?」
そう言ってすぐに彼女が女子校の生徒だったことを思い出す。まずい…と思いながらまた例の視線で見つめてしまった。
「それじゃ海堂…くん?」
彼女はその射抜くような視線にも驚くことなく、小さな声でこう言った。
「…それでいい」
「はいっ」
 映画館は休みの日ということでもの凄い人だったが、2人は予約してあった席に無事座ることが出来た。映画代金については何も言えなかったので、海堂は2人分のポップコーンと飲み物を購入する。
「…ほらよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
梨緒は儚げに微笑んでそれらを受け取った。2人の行為はそれぞれとても自然で、その間には一切の違和感もない。映画を見ている間も泣いたり笑ったりと退屈を感じる暇もなかった。
「面白かったですね」
「そうだな」
 暗い場所から急に外に出ると、その光がいつも以上に眩しく感じられる。海堂は大きく空に向かって伸びた。
「腹…へってねえか。今度は俺が奢る」
「えっ?」
梨緒はその言葉にハッとして慌てて首を振った。
「そういうのは駄目だって言われてて…」
「なんだそれは」
「海堂くんには映画とお昼代を負担させちゃいけないって言われました」
一体何を言われたんだという疑問を梨緒はそのまま答えてみせる。
「もしこのことで何かを言ったとしたら、あれに『シャケ』も混ぜるって伝えてほしいって…」
(悪魔か、あの人は!)
 自分が彼女にしてやれるのは、こうして一緒にいてやることしかないのだろうか。海堂の溜め息が深くなってくる。
「あの…海堂くんは何がお好きですか?」
そう言われてフッと現実に戻ってきた。
「あっさりした和食みたいなのだ」
「そうですか…」
「あまり好きじゃないのなら仕方ねーけど」
「いいえ、私もそっちの方がいいんです。でもそんなお店とか知らなくて…」
まだ中学二年生の女の子だ。友人たちとファーストフードに出かけることの方が多いだろうし、食事に出かける時も大人の都合に振り回されてしまうものだろう。
「蕎麦は好きか?」
「大好きです」
「俺の知っている店がある。よければ連れていってやってもいい」
その一言で梨緒の表情も明るくなる。
「こっちだ」
「…はいっ」
 海堂家が贔屓にしている蕎麦屋ののれんを潜ると、そこにいた店の主人が『いらっしゃい』の一言も忘れて呆然と2人を見つめる。
「あのっ、こんにちは」
幼い顔をした女の子がお辞儀をした時点で、もう心ごとどこかに吹っ飛んでしまいそうになるほどの衝撃を受ける。
この店の店員たちはそれこそ海堂のことを子供の頃から知っており、まさかデートの行き先としてここを選ぶことなど想像がつかなかったのだ。
「い…いらっしゃい…」
「…ども」
 店のなんとなく妙な雰囲気はわかっていたが、それでも彼女の為に知らないふりをして席に座った。
「何にする?」
「海堂くんと同じもので。お勧めを教えて下さい」
注文をとりにきた店員に『いつものやつ』と言った。その様子のスマートさに梨緒は惚れ惚れしてしまう。
「凄いですね」
「何がだ」
「こういう常連のお店があるんですね。そういうのって格好いい…ですよね」
それと同時に言った方も言われた方も真っ赤になる。信じられない様子を覗きに厨房から幾つもの顔が出てきた。
(薫くんもそんな年頃になったんだね…)
 一緒に天ざるを食べる2人はとても幸せそうだった。その影響なのか店内にもほんわかとした空気が流れていて、そのことに店主は満足する。2人はデザートとしてアイスクリームのサービスを受け、値段も平日のランチ価格で充分だと言われてしまった。2人は何度も店主の好意を遠慮したが結局は大人に押し切られる形になる。でもそこまでのサービスを受ける理由はわからないままだった…のちに家族でこの店を訪れた時に『あの時のガールフレンドは元気かい?』と店主に問われるまでは。
 
 
 
 
 2人がそば屋を出たのは午後一時過ぎ頃だった。デートと名の付くものならこれからいくらでも予定が入っているものなのだろうか。しかしまだそういうことについて全然初心者である2人はもうやることがなくなってしまったのだった。
「すまねぇな。俺そのあたり何も考えていなかった」
「いいんです。急にお願いしたのはこっちですから」
ぺこっと頭を下げる梨緒は本当に楽しそうにしていた。
「海堂くんが来てくれて本当に嬉しかったんです。それに乾さんが話して聞かせてくれた通りの人だったし」
 一体この小さな頭に何を入れてくれたんだ…とは思うが、それでも決して彼女が不快になる内容ではなかったと想像が出来る。嫌々引き受けたはずのデートでも気がつけば全ては楽しいことばかりだった。
「…梨緒!」
背後から突然彼女を呼ぶ声が聞こえる。振り向くとそこには乾と梨緒によく似た女性が立っていた。
「お姉ちゃん?」
梨緒の表情がパッと明るく変化する。おそらくはあの人が梨緒の姉なのだろう…すなわち乾の恋人ということでもある。確かに2人が並んでいる様子は正真正銘といった感じだ。自分たちとはやはりどこかが違う。手を振りながら近づいてくるその人に向かって梨緒は走り、そのまま飛びついた。
「どうだった?」
「ものすごく楽しかった! 一緒に映画を見て、その後お蕎麦屋さんに行ったの…」
 勢いよく捲したてる彼女を見て海堂の胸がわずかに痛んだ。それは決して自分には見せてもらえない素の彼女だったからだろう。もちろん初対面から数時間の自分には無理なものだとわかってはいたけれど。
「ご苦労だったな」
トンと肩を叩かれて我に返る。
「先輩…」
「そろそろ頃合いかと思って迎えに来たんだ」
迷っていた自分の気持ちを察してくれたのだろう。そのことについては素直に感謝する。
「すみません…」
そう言う彼の前に姉妹も立った。
「今日は妹がお世話になりました。無理なことをお願いしてごめんなさいね」
梨緒を小学生と見間違えてしまったように、姉の新菜も一見自分と年の変わらない頃のように見えた。しかしその受け答えは年上の…高校生のものだと納得出来る。実際に会う前はどんな変人かと想像したりもしたが、それでも大人びた雰囲気の乾とはお似合いだと思った。
「いえ、こちらこそ色々気を使ってもらって…」
 外見と違い行儀の良さが現れている少年を新菜も好意を持って見つめている。
「忙しいところを私たちの為に割いてくれてありがとう…貞治くんも」
「ありがとうございました」
梨緒も2人に向かって頭を下げた。そんな彼女の頭を乾はそっと撫でてやる。まるで本当の兄のような仕草だった。実はここまでくるのに本人も結構苦労をしているのだが。
「大丈夫かい?」
「はい。最初は自信なかったけれど、でも海堂くんがとても親切にしてくれたから」
そんな風に思っていてくれたことが信じられなくて海堂は肯定も否定もしないまま黙り込んでしまう。そうだよね…というつもりで視線を向けた梨緒はその反応に驚いてしまった。
(私…何かしたかな? 変なこと言った?)
 それでもいつまでもこうして固まっているわけにもいかない。一度ここで二手に別れて帰宅することに決める。
「じゃ、私たちはここで失礼するね」
「ああ…気をつけて。後で連絡するよ」
それは恋人達の当たり前の別れの言葉だ。しかし年下の2人にはそこまで上手に交わせるセリフが思いつかない。姉に促されて歩こうとする梨緒は、それでも無言を貫く海堂に向かってこう叫んだ。
「テニス!」
「えっ…」
「テニス…頑張ってね…」
それがそのまま『さよなら』の代わりになる。小さく手を振る彼女に対して海堂の口から言葉は出てこなかった。
 
 
 
 
 
 お互いさっきまで可愛い女の子とデートをしていた男たちの帰り道というのは、どうも哀愁に満ちていて色気もない。先に乾が歩き、その数歩後ろを海堂がついてゆく。駅までの道すがらしばらくはそんな状態が続いていた。
「今日はすまなかったな、無理なことを頼んで」
乾がふいにそう話し掛けてきた。
「いや…」
「でも安心したよ。あんなに機嫌良く帰ってくるなんて、本人が一番信じられないだろうがね」
そう語る本人も楽しそうだ。
「先輩」
「ん?」
「どうして俺を誘ったんスか」
 それはずっと以前から聞きたかったことだ。あらかたのデータを収集しているという理由は大体掴めるが、この人が人の心まで全てを数字で理解しているとは思えなかった。
「確かに『デート』という言葉に相応しい人間はお前の他にもいただろう。桃城や菊丸ならばいくらでも明るい雰囲気は作れるし、大石やタカさんなら女の子の気を使ってくれるのも上手だろうし。まあ話が合わなければ置いてけぼりにしそうな越前は最初から考えていなかったけれど…でもあの子は思っている以上に難しい女の子でね。桃城たちが相手なら、男子とほとんど接点がない分あの明るさに恐怖心を覚えてしまうんだ。大石たちなら優しさゆえに反対に何も言えなくなってしまう」
自分は気がつかなかったが、内気で人見知りしやすそうな子ではあるかもしれない。
「そういう不器用な面は海堂に似ている気がしたんだ。だから梨緒ちゃんにそのあたりを初めから教え込んでおけば、もしかしたら親近感を覚えて上手に心を開くと思った。それにお前は彼女がこの場にいるのが無理だと思えば真っ先に気がついて俺に連絡をくれただろう?」
 やがて乾の話は梨緒のプライベートのあたりまで及んできた。
「あの子…小さい頃にお父さんを亡くしていてね。お母さんとさっき会ったお姉さんとずっと3人で暮らしてきたんだ。学校も幼稚園の頃から女子校だったから男性に関してはほとんど接点を持たずに生きてきたわけだ。何も知らないということはそのまま恐怖に直結するものだから、実際新菜も梨緒ちゃんのことをずっと心配していたらしい。俺もあの子を知って随分になるけれど、初めの頃は口もきいてもらえなかったんだよ」
もし姉と付き合う自分のことが気に入らなくてツンと無視されたのならまだいい。少しずつ会話を繰り返すことで打ち解けられる可能性はかなり高かったからだ。しかし会うたびに思い詰めたような泣き顔を見せられると流石に理由もなく申し訳ない気持ちになってしまう。
「思春期の一番デリケートな時期に、大切なお姉さんを奪われたような気持ちになったんだろうね。足下が常にぐらついているような感じで、でも基本が寂しがりやだから露骨に嫌いになることも出来なくて。自分で自分を追いつめたりもしたんだろうな」
 そんな様子は梨緒の姿からは想像もつかなかった。そんな話を聞いてしまえばさっきのほのぼのとした健気な様子さえ悲しげに思えてくる。
「今回のことは半分荒療治みたいなものだ。素敵なボーイフレンドを紹介したらそれなりに異性との付き合いに目覚めるんじゃないかと…」
「どうしてそんなに極端な方から極端な方に走るんスか!」
先輩に失礼かとは思ったが、彼女のことを考えるとやはり大声が出てしまう。乾はそんな海堂の様子をじっと見ていた。しかしすぐに口元に笑みが浮かぶ。
「相手がお前だったからだよ」
「なっ…」
「そのカンは当たったみたいだな。あの子があんなに楽しそうな顔をしているのは初めて見たよ」
 でも事情を知ってしまえばもう全ては終わったのだと実感出来た。彼女は自分から連絡はしてこないだろう。乾から連絡先を聞くことは出来るだろうが、自分だってそういう行為をするつもりはなかった。2人は『友達』でもなければ『恋人』でもない。そして乾たちも決してそれを求めてはいないのだから余計だ。もう二度とは彼女とは会えない。こんな満ち足りた時間を過ごすこともない。自分を少しも恐がりもせず、少し甘えたような笑顔を向けてくれ、自分のことを無条件に信用し…。
「俺、先に帰るッス」
「海堂?」
乾が止める声も聞かずに海堂は走り出す。その姿はすぐに人混みに溶けてしまった。
(まさか…)
鉄壁のデータマンもまさか彼の胸の内が自己嫌悪で満たされていることに、すぐに気がつくことは出来なかった。
 
 
 
 
 
 あれから数日が過ぎた。当然ながら当たり前の時間が海堂の元に戻ってきたのだ。唯一異なる点は日生梨緒という女の子のことを知っているということだけ。しかし海堂はそういったことを誰にも微塵も感じさせない過ごし方をしていた。それは事の発端である乾ですら首を捻ることもあったくらいだ。テニスの練習もいつも以上に真剣にこなしている。それはこれまでなら自分自身に課したものだったのだが…。
(テニス…がんばってね)
時折あの子の最後の言葉が脳裏をよぎる。おそらくはもう二度と会わないはずの彼女の…それは唯一交わした約束のようなものだったからだ。
 それでもその状況に疑問を持つ者も存在していた。それは同じ学年のテニス部でも自他共に認めるライバル関係にあるあの男である。しかし彼は海堂に対して『元気を出して欲しい』と望む性質ではなかった。早速見つけた弱点をネタにどうからかってやろうかと思案している時に…。
「やあ。まだまだ元気そうだな、桃城は」
「ゲッ、乾せんぱい…?」
彼の手にはジョッキになみなみと注がれた汁があった。数回の改良を重ねた結果『アジ』と『サンマ』と『シャケ』が加わった自信作である。
「そんなお前にこれをご馳走してやりたいんだが」
「すんませーん、今日はこれで失礼しまーっす」
正しい判断だった。海堂にとっての正義の味方はやっぱりすぐ近くにいたようだ。
 しかしベンチに座ってバンダナを外し無言で汗を拭う海堂のことを乾が心配していないはずがなかった。今回のことについてはそれなりの責任も感じている。
(恋人という関係でなくても…同年齢の友達としてでもいいから、もう何度か会わせてやった方が良かったのだろうか)
無論そういう考えは初期段階からなかったわけではない。しかし梨緒は普通以上に大人しい性格の主だ。海堂が彼女のことをどう思うのかは想像がつかなかった。彼女を大切に思うか、それとも負担に感じるか…その確率は五分と五分で結論は出せなかった。だからあえて『たった一度の出会い』を演出してみせたのだ。しかしまさか海堂がそのせいでここまで思い詰めるようになるとは思わなかったのだけれど。
「海堂」
海堂はそう自分を呼んだ相手を見上げる。
「何すか」
「預かり物があるんだけれど、いいか」
乾はポケットから小さくて薄い包みを取り出して彼に手渡す。
「この前一緒に過ごしてくれたお礼だそうだ。本当に楽しかったと伝えてほしいと頼まれている」
「そうっスか」
 乾はそのまま去り、海堂はしばらくその包みを見ていた。どうやらその感触からハンカチかバンダナのようなものであるらしい。これを選ぶ時でさえ必死といった形相になる梨緒の姿が見えるような気がする。丁寧にテープをはがしてゆくとそこから見えたのはやはり彼がコレクションするのを趣味としているバンダナだった。モスグリーンの生地に見知らぬ異国の地図が黒い線で描かれている。女の子の選んだものにしては随分と大人っほい感じの品だが、海堂はその趣味の良さに感動した。手にはすべすべとした生地の感触が優しくて余計に切なくなってしまった。
「なんだ? これ」
包みの中身はただ柔らかいだけではなかった。バンダナに包まれているような感じの固い感触を覚える。それをつまみ上げてみると…名刺大の小さなカードが入っていた。というかこれはよくゲームセンターなどで作れる名刺タイプの自己紹介カードではないだろうか。友人たちと一緒に撮影したと思われるプリクラの横には梨緒の名前と住所、そして携帯電話のナンバーが記されていた。そしてその裏には直筆でこう書かれていた。
『この前は本当にありがとうございました 日生梨緒』
 体が心臓音と同時にガクンと上下に動いたような気がした。その丸くて小さな字から梨緒の温かくて素朴な優しささえ伝わってくる。気持ちも体もいよいよじっとしていられなくなってきた。梨緒がこれだけの行為をするのにどのくらい勇気を必要としたのか…それがわからないほど無粋な男ではないのである。
(電話だ! とにかくすぐに連絡をとる!)
 しかし部室で携帯電話を使うわけにもいかない。まだ部員たちが残っている可能性が高いのだ。だとしたら…海堂は校舎の中にある唯一の公衆電話に向かって走り出した。
(なんとか繋がってくれ…)
何度かのコールの後に女の子の声が聞こえてきた。
『はい、日生です』
「あっ…俺…」
こんな時は何と言えばいいのだろうか。バンダナの礼か、それとも楽しかったあの日のことなのか。しかしここにはアドバイスしてくれそうなあの先輩の姿はない。無言のままの彼に梨緒はこう訊ねた。
『もしかして、海堂くん…?』
「そうだ。さっき乾先輩からバンダナを受け取って…」
『ごめんなさい。本当はもっときちんとしたことをしたかったんだけれど、大きいことをしたら迷惑なんじゃないかって思って…それで私…』
 違う、そんなことを言わせたいのではない。必死に首を横に振ったが相手にその姿は見えるはずがなかった。
「そうじゃねぇ。嬉しかった…こっちこそ気を使わせて悪かったな」
『ううん。こちらこそ受け取ってくれてどうもありがとう』
ああ…こういう感覚なのだと海堂は思い返す。初めて2人だけで過ごした時のように、ありのままの自分でいても自然に受け止めてもらえる優しい感じだ。
「今度の休み、あいているか?」
『はいっ?』
自分がこんな事を言うことより、受話器の向こうで慌てふためいている梨緒を想像すると吹き出したくなる。
「映画でも遊園地でもどこでもいい。今度は監視なしで2人で…」
『本当に?』
梨緒の声はもう泣きそうになっている。
「お前さえ良ければ」
『はいっ』
その時半べそな女の子が立ち止まって携帯電話にぺこんとお辞儀をしていたということは…それを見かけた通行人たちと受話器の向こうにいる大好きな人だけが知っていた。
 
 
 
 
 その日の夜、自室にこもっていた乾貞治は片手にパソコンのマウスを、もう片手に携帯電話を持ちながら双方を器用に動かしていた。パソコンの画面にはいつもならテニスのデータが溢れるほどに出てきている筈だったが、今日に限っては映画だの遊園地だのコンサートだの…近場のイベントばかりがズラズラと並べられている。
「…それでそっちはどうなんだ?」
電話の向こうから女の子の笑い声が聞こえてくる。
「もう今から大慌てなの。まさか本当に電話をもらえるとは思っていなかったらしくて」
相手は乾自身の恋人であり、梨緒の姉でもある日生新菜だった。どうやら妹に名刺カードを入れるよう勧めたのも彼女であるらしい。
「どんな服を着ていこうかとか、香水をつけていった方がいいのかとか…もうさっきから質問責めよ」
「香水はやめた方がいいかもね。そういう華美なことは好きじゃない男だし」
「まだ中学生だものね」
 寂しがり屋でデリケートな女の子をなんとか前向きな性格にしてやりたい…そう言う新菜の気持ちを尊重するつもりで乾は今回のデートを仕組んでみせた。それが本当の恋愛感情を生み出すことになろうとは誰が想像するだろう。しかし…。
「でも海堂くんの迷惑になっていなければいいな。少し強引にしてしまったから」
「でも最終的にはあの男自身が決めたことだからな」
乾自身も今回の一連の出来事に後ろめたさを感じていないわけではなかった。しかし2人にとってはこれも一つの出会いだったのだろう。それを影で応援するのもまた楽しいものだと言えた。
「まあ無茶だけはさせないように頼むよ」
「わかったわ」
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
海堂くんとオリジナルキャラの両思い話はいくつか『LOVERS』の方で書いているのですが、実は二人の馴れ初めはこんな感じでした。それにしても長いな…なんてことはない、二組分のカップリングで書いているからなんですが。
 
 
 
 
イメージソング   『スカーレット』   スピッツ
更新日時:
2005/05/25
前のページ 目次 次のページ

戻る


Last updated: 2010/5/14