365 TITLE

        
30      夢破れて   (丸井ブン太   クラスメート設定)
 
 
 
 
 
 昔話の王子でも滅多に口にすることは出来ないと言われ、西洋に初めて触れた武士たちも出された料理の中で唯一美味いと語ったアレも、今の時代ではコイン数枚で買える気軽なものになっていた。
「でも時々自分で作りたくなるのよね」
「新菜、作れんの?」
「なんとかね」
「じゃあ俺も食いたいっ。新菜の作ったやつね」
お互いの部が休みの日曜日、久しぶりのデートはこんな予定で始まったのだった。
 
 
 
 
 材料はどこの家にでも常備されているものばかりだと言っていい。玉子にミルクに砂糖…新菜はこの為に生クリームだけは高級なものを立ち寄った店で購入した。
「結構高くついちまうもんだな」
「その分美味しく作るから待ってて」
リビングのソファーの上に寝そべっているブン太に、新菜はそう声をかけた。『男子厨房に入らず』というイメージは彼と同じテニス部の真田弦一郎のものだが、男ばかり三人兄弟の長男であるブン太もまるっきり同じ性質であるらしい。日頃の俺様ぶりの理由もそこにあるような気がして、新菜はフフッと笑う。
「あー、今なんか笑ったろぃ?」
「べーつーにーっ」
 こうした自宅デートは、大抵女の子である新菜の自宅で行われる。ブン太の家では人の出入りが多すぎて落ち着かないのだそうだ。まだ建てられて間もない日生家で、ブン太はそれこそ本当の王様のような気分を味わっていた。
「ねー、まだ?」
「まだまだ」
「なーにめんどくせーことしてんの? こういうのって、材料混ぜて冷やせばそれでいいんじゃねーの?」
その時新菜は混ざった材料をこし器に入れて、玉子液をサラサラにしていたところだった。
「こうしていっぱい手をかけるから美味しいものが出来るんだって、お婆ちゃんが言っていたの…って、あれ?」
「どした?」
対面キッチンの向こうから、髪に結ばれたリボンが揺れているのが見える。
「ブン太ー、そっちにある買い物袋に茶色の瓶入っていないかなあ」
「んー?」
 面倒くさそうに立ち上がり、近くにあったビニール袋の中に手を突っ込む。確かにそこには手のひらにすっぽりと収まりそうな程度の大きさの瓶が入っていた。
「バニラエッセンス?」
「そう! それ取って」
ブン太は心の中でもう一度その名前を呼んでみた。『バニラエッセンス』…それはまだ彼の知らない未知の味を思わせる素晴らしい名前のように思えた。
「これってなんだ?」
「香りをつける為のやつ。プリンやバニラアイスやカスタードクリームに入れるの」
キッチンで待っている新菜を無視して、ブン太はその瓶のキャップを開ける。なるほど…確かに漂ってくる香りは彼の大好きなものばかりを思い出させてくれる。
「ブン太、まだ?」
しかしリビングから反応がない。
「どうしたの?」
「ぎゃああああーーーーっっっ!!!!」
 背中を向けていたブン太から、まるで何かに踏みつけられたかのような叫びが聞こえてきた。新菜もまた慌ててリビングに走ってくる。そこには苦しそうにうずくまる彼の姿があった。
「どうしたの? 何があったの」
げほげほと咳き込む彼は本当に辛そうだ。一体何が起こったというのか。気になるのは部屋に充満している甘い香りだったが…そしてブン太の手からコロコロと転がってきた茶色の小瓶は?
「バニラエッセンス? ブン太まさかこれ飲んじゃったの?」
「だってすっげー美味そうだったからよぉ」
「バカッ、これは香料であって、食べ物じゃないの」
「じゃあなんで入れるんだよ」
「ほんのり香りが付けばそれでいいの。2〜3滴入れる程度なら、入っているかどうかわからないでしょ」
 新菜はバニラエッセンスの味を消す為に、フルーツジュースを注いでブン太に手渡した。ゴクゴクと飲み干す横で、ガムの紙を剥いてあげる。
「…なんかすっげーショックだ」
「バニラの味が? お砂糖みたいに甘いものだと思っていたの?」
「だってあんな匂いさせてりゃあよ…」
ガムを受け取って、膨らませた頬の空気で一気に風船を作る。
「まるで子供みたいだね。先に何でも口に入れてしまうなんて、赤ちゃんみたい」
そう言う新菜の手がスーッと彼の赤い髪へと伸びる。優しく撫でてくれる仕草が恥ずかしいようで、実はとても嬉しくて…結局されるがままのブン太だった。
 
 
 
 
 
 2〜3滴のバニラエッセンスを加えてアイスクリームの原液は無事に冷凍庫の中に収まった。あとは数回時間を決めてかくはんするだけである。タオルで手を拭きながらリビングに入ってゆくと…。
「ブーン太」
しかし本人は新菜に完全に背を向けて項垂れているように見える。それでもパチンパチンと音がするということは…ガムは噛んでいるということか。
(こりゃ、本気で落ち込んでいるな…?)
これがもしオレンジやレモンのエッセンスだったなら、ここまで落ち込むこともなかったのだろう。実際にある果物とは違って、バニラというのは言葉そのものに魔法のような力がある。
「俺さあ」
「ん?」
「新菜がこうやって何かを作ってくれるたびに思い出すんだろうな」
 バニラエッセンスを買った新菜が悪くないことはわかっていた。その中にあるのは、ちょっとした照れ隠しと甘えと…男の意地だ。
「そうなの?」
「お菓子だけじゃねーぞ? 和食でも洋食でも。中華だってさ」
あの苦かった味はガムの甘味でとっくに消えているくせに…新菜はクスクスと笑う。
「それってさ」
「んー?」
「プロポーズみたいだね」
 これまで新菜がブン太に作ったのは、お菓子とお弁当、そしてテニス部への差し入れくらいなものだ。和洋だけでなく中華まで出てきたとなると、これは遠い将来に向けたものだと思われても仕方ない。パチンと音をたてて割れたガムを再び口に入れて、ブン太はニヤリと笑う。
「いいな…ソレ」
「ホント?」
「きっと子供が生まれたら、そいつらも同じことするぜー? そのたびに俺はこう言ってやんだ」
「「バニラエッセンスは不味い!」」
 二人は同時に同じ言葉を叫ぶと、顔を見合わせてゲラゲラと笑った。散々笑い尽くすと体がフラフラになり、一緒に大きなサイズのクッションへと倒れ込む。
「なあ、新菜」
「んー?」
涙を拭きながらまだフラフラしている彼女に、また意地悪く微笑む。
「返事は?」
一体何のことだろう…と一瞬だけ考えはしたが、すぐにフフッと笑うとブン太の側に体をすり寄せた。そして彼の耳に彼の一番欲している言葉を入れてあげる。
「…大好き」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
バニラエッセンスは劇薬ではないですが、劇薬並みの味がするので口にするのはやめましょう(←経験者)。
 
 
 
 
イメージソング   『Present Pleasure』   ZOO
更新日時:
2004/07/30
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Last updated: 2010/5/14