365 TITLE

        
2      生まれる前   (黒羽春風   幼なじみ設定)
 
 
 
 
 
 夕食と入浴を終えて気持ちの良い夜をどう過ごそうかと思っていた黒羽春風の背中を、突然冷たい汗がツツーッと伝った。
「…やばい」
机の上に置かれている鞄を見ているうちに突然記憶の糸がほぐれてきたのだ。先週の始め頃…自分は確かクラスで配布されたプリントを持ち帰っていなかっただろうか。クラスだよりだったような気もするし、宿題だったような気もする。しかしこうして気持ちごと焦ってしまうということは相当重要な内容だったのではないだろうか。
「やばっ、やばやばやばやば…」
 慌てて鞄の中をかき回してみるが、肝心の物はまったく出てくる気配はない。机の中かロッカーに入れっぱなしになっている可能性はあった。そういう部分は彼に限らず中学生の当たり前の行動ともいえる。
「仕方ねぇ…あいつに聞くしかねーか」
春風の視線が自然と自室にある唯一の窓の方へと向かう。そこは直接隣の家のとある部屋へと自在に出かけることが出来た。そこは自分と同じ六角中に通う幼なじみの少女の部屋だった。学年も同じだからこれほど好都合な存在もない。
「新菜いるかー?」
 乾いたようなサッシの音を響かせて他人の家の窓を開ける。いつの間にかここを通のも窮屈になってしまったものだと痛感した。
「ちよっとハル! あんまりでっかい声出さないでよ。びっくりしちゃうでしょっ」
新菜は周りに気を使ったようなヒソヒソした声で出迎える。
「なんだよ、それ…」
と怒りを口にしかけた彼の動きが止まる。それは新菜が両腕に抱いていた存在がありありと目に飛び込んできたせいだ。パステルカラーのおくるみに包まれた小さな存在は、綺麗な目をぱっちりと開けて春風を見ている。
「あかっ、赤ん坊!?」
「突然入ってきてびっくりさせないでよね。こんな大男みたことないんだから、生後2週間目の赤ちゃんに一生分のトラウマ植え付けるつもり?」
「…すみません」
恐れ入って頭を下げるしかない春風であった。 
 
 
 
 
 
 黒羽家と日生家の付き合いは2人の子供が生まれる以前までさかのぼるらしい。そのせいか春風と新菜も家族と同様の付き合いをしてきた。たとえ何度喧嘩をしたり言い争いをしたとしても関係が途切れることは永遠に有り得ないのだと本人たちも思っている。こんな屋根づたいの行き来が可能なのもそのあらわれだろう。
「どうしたんだよ、その赤ん坊」
「お姉ちゃんちの子だよ。私の甥っ子…って、ハル知らなかったの? 昨日おばさんがお祝い持って来てくれていたけど」
忘れっぽいところがある自分の実の親だ。きっと報告することを完全に飛ばしてしまったのだろう。その恥ずかしさをなんとなく隠したくてわざとやんちゃな言葉を吐いてみる。
「なるほどな。新菜もついに叔母さんと呼ばれるようになったか」
しかしどうやら相手も負ける気は少しもないらしい。
「なんとでもおっしゃい。こんなに可愛い甥っ子に『叔母さん』って言われるのなら本望よ」
「言うじゃん」
 それにしてもやはり赤ん坊がいるせいか、いつもの部屋とはなんとなく違う気は確かにした。新菜の自室は本人のサッパリとした気性と同様にシンプルそのものだ。そんな中にある子供用品一式は別空間のように映る。紙おむつ入れもほ乳瓶もベビーウェアも可愛いキャラクターで統一されていた。
「そんで肝心のおばさんたちはどうしてんだよ」
「みんな疲れてんのよね。このお客さまは可愛いけれども、面倒をみるのはなかなか大変なのよ。お姉ちゃんももう少し休息が必要そうだし、時々こうして面倒みているの」
「へぇー」
小さな布団の上で横になっている赤ん坊の頬に触れてみる。『ふわふわ』と『つるつる』が混ざったような優しい感触だった。
「なんか赤ん坊ってこんなに小せぇのな」
「そんなこと言って。私は赤ちゃんなんてこんな近くで見るの初めてに近いよ? でもハルには弟がいるじゃん」
「そん時は俺もちっこかったからな。当時のことなんてまるっきり覚えてねーよ」
「…もったいない」
「まーな」
 背の高い思春期の少年が体を必死に折り曲げて赤ん坊を眺めている姿はちょっとだけ滑稽でもあった。新菜は紙おむつの整理をしながらクスッと笑う。
「なんだよ。何か可笑しいか?」
「そうじゃないよ…ただこんなに背の高いハルにだって赤ちゃんの頃はあったんだろうなって」
小さな手はなんとか人の指を握りしめるのが精一杯だ。それが15年もの年月を経てテニスの全国区プレイヤーになったりも出来る。まだ土踏まずも出来ていない足は見た目はお饅頭のようだが、いつかは逞しく大地を蹴り上げるに違いなかった。
「これはお姉ちゃんから聞いたことなんだけれど、人間って他の生き物よりも遙かに未熟な形で生まれてくるんだって」
「はあ?」
「動物たちは生まれてすぐに立ち上がるし、自分からお乳を飲みに行く事だって出来るじゃない。人間はこうして沢山の人の手を借りて…お互いに支え合って生きているんだね」
春風の顔を覗き込んで新菜はまた優しく微笑んだ。そんな顔を見せられたら頷く以外に出来ないだろうと思う。
「まあ、言われてみりゃそうかもな」
 小さな口が大きく開いて眠りを誘うあくびが出てきた。それをからかうように春風の指は赤ん坊の顔を撫でて行く。
「だったら俺もこのチビに何かしてやれる事ねーかな」
「もう少し大きくなってからテニスでも教えてあげたら?」
確かに今の自分がしてやれそうなのはそれくらいかもしれない。まあ海遊びとかもあるけれど…少なくとも勉強は無理っぽいから。
「でもバスケの方に走ったとしても文句言わないでよ?」
「バーカ」
2人は眠り始めた子供の両脇で少し遠慮がちに、それでも楽しそうに笑った。
 
 
 
 
 思いがけずに実に可愛らしい存在と遊んでしまった春風は、幸せな気持ちのまま自分の部屋へと(屋根を伝って)戻ってきた。涼しい室内に入っても赤ん坊の温もりはそのまま彼の手の中に残っている。甘えたような声を思い出すと体がくすぐったくなってきた。
「悪くねーな、ああいうのも…」
それによく考えてみたら新菜の赤ん坊を抱く姿もなかなか似合っていたと思う。幼なじみの新たな一面を見られたのもまた嬉しかった。
 それにして小さな生まれたての赤ん坊というものはあんなに儚げな印象だったろうか。すると自分のこの体さえ頼りないような…そんな複雑な気持ちにさせてくれる。185pの高身長を誇るテニスプレイヤーである自分にもあんな頃が本当にあったのだろうか。
「あれ…あれどこやったっけ」
何か思う事があったのだろうか。今度は自室の押入を開き、ごそごそとそこをあさり始める。ここには日頃使わない洋服や来客用の布団などが入っているのだが…。
「あった! これこれ…」
それはビロード生地を表紙に使った大きな本…黒羽家の思い出が詰まったアルバムだった。これを取り出すのは一体どれくらい振りなのだろう。新しい最近の写真はここまで奥にはしまい込まれてはいなかったから。
 一枚一枚ページをめくると、少しずつ色が変わってきた写真が目に飛び出してくる。中には自分たちが生まれる前…両親が結婚したばかりの頃のものもあった。自分は父親によく似ていたから、ちょっとしたタイムスリップを味わう気持ちになる。いよいよ自分の母親の腹部が大きくなってきた写真に辿り着く。生命は息づいていても、この世には自分が誕生していない頃だ。それでも母の愛おしむような表情で自分がすでに愛されていたことは伝わってくる。そして…隣の家に住む家族もまた末っ子である新菜の出産を控えていた筈だ。彼女は自分よりも数ヶ月だけ早く生まれていて…。
「あっ…」
 それはおそらく今の自分がもっとも出会いたかった一枚なのだろう。春風の母親のお腹にそっと顔を寄せているのは、生まれて間もない頃の新菜だった。彼女もまた母親にしっかりと支えられてはいたが。
(初めまして…)
(あなたはだあれ?)
そんな感じで生まれる前の自分に語りかけてくれているのだろうか、このまだ一人では生きて行けない小さな存在は。でも彼女は15年経った今も自分の隣にいてくれている。自分は決して一人ではない…その証のような気がして胸に甘いものが広がっていった。
「良かった…」
自然と春風の口から安堵の言葉が出てきた。
「俺にはお前がいてくれて本当に良かった」
もちろんこんなことを本人の目の前では言えないのだけれど。
「あれ…? でも俺って本当は何をしに隣に…」
すると再び机の上にある鞄が我に返らせてくれた。
「やばっ、プリントッ」
 肝心の目的を思い出してまた青くなってしまう。もう一度新菜の部屋に出向くのは躊躇われるが、それでも腹に背はかえられないのも事実。再び窓を開こうとした時、ドンドンとそれを叩く音が聞こえた。
「なっ? 何なんだ?」
「ハルッ、ハルいる?」
窓から部屋に入ろうとしたのは、他でもない先程まで話をしていた日生新菜本人だった。こっちが行く前に彼女が来てくれた事になる。
「どうしたんだよお前…赤ん坊は?」
「お母さんたちに預けてきた。それよりも学校で何か書類みたいなの渡されてなかった? 今まですっかりそのこと忘れていたんだけれど、どこ探しても見あたらないのーッ」
その顔面蒼白具合は先程の春風のものといい勝負だった。
「ちょっと待てよ。俺だって今お前にそれを聞きに行こうかと思ってたんだぜ?」
「嘘ーっ、ハルの大ボケーッ」
「どっちが大ボケだっての!」
しかしどちらの手元にも肝心のプリントは存在しない。2人は一緒に途方に暮れるしか出来ることはなかった。
 
 
 
 
 
 携帯電話の向こうにいる相手はびっくりしたような…かつとっても呆れたようなような声で言った。
「…プリント?」
「そう! それになんて書いてあるかわかるか?」
「お願いッ、佐伯大明神!」
当然電話の相手である佐伯虎次郎に2人の様子が見えることはない。しかしまるで手に取るかのようにわかってしまうのは何故なのだろうか。きっと並んで正座をしながら頭を携帯電話に下げているに違いない。
「何って…学祭までの時間割の変更なんだけれどね」
「手元にあるのか?」
時間割など手元に置くのは当たり前の話だ。彼の机の前にあるコルクボードにしっかりと貼られている。
 しかし連絡を入れた方にとっては切実な問題である。学祭の準備が開始されるのは明日からだったのだ。春風と新菜は自分たちのうっかり具合を棚に上げて神に心から感謝した。
「わかった…今からバネの家にファックスで送信するから。あとは2人でコピーしあうなり好きにしなよ」
「サンキュー、悪いなサエ」
その安堵の言葉がなんとなく小憎らしくて、佐伯はついこんな意地悪を口にしてしまった。
「…それにしてもいつも2人は仲良いよね…忘れ物まで一緒だなんてさ」
「「冗談じゃないっ!!」」
その重なり合う言葉こそが仲良しの証であり、結局は自分たちのおとぼけと引き替えに佐伯虎次郎に一生分のからかいのネタを提供してしまうのであった。
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
サエさんとバネさんのクラスが違うという公式の設定は綺麗に忘れてあげましょう…オネガイシマス…。
 
 
 
 
イメージソング   『おやすみのうた』   Dreams Come True
更新日時:
2005/10/10
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Last updated: 2010/5/14