365 TITLE

        
18      姉妹   (手塚国光   他校生設定)
 
 
 
 
 
 
 カラン…とグラスの中の氷が溶けて傾いてゆく音が響いた。ストローでそれをかき回していた女の子の指がふいに止まる。
「九州…?」
「そうだ」
向かいの席に座っている男は、なんでもないことのようにそう言ってアイスコーヒーを口にする。
「遠いよ…ね?」
「そうだな」
彼…手塚国光にとってはそれは正式な決定であり、当然気持ちも完全にその方へ向いているのだということがわかる。おそらくは彼女…日生梨緒が心をかき乱されてしまうことも予想の範囲の出来事だろう。ただ彼女は、降って湧いたかのような現実をどう受け止めて良いのか戸惑っているように見えた。
「いつまで?」
「全国までには間に合わせたいと思っている」
(『思っている』なんて大人しいこと考えていないくせに)
 理由はおそらくあのことだろう。関東大会の初戦で痛めた左肩の完治が目的のはずだ。もちろん梨緒もそのことは心配していたし、彼にとっても自分にとっても最重要課題だと心の底から思っている。しかし…。
「うーんっっ」
可愛らしい顔に不似合いなうめき声が聞こえてくる。
「梨緒?」
「ごめん、国光…やっぱりなんかピンとこない」
「だろうな」
「元々が県を一つ跨いでいるからねえ」
どうしてもぶち当たってしまう現実に二人は大きく溜め息をついた。
 手塚国光が立派な東京都民であるのと同様に、日生梨緒はれっきとした神奈川県民だったのだ。梨緒自身の生まれは東京で彼とはそこで知り合った幼なじみの延長ではあったが、親の仕事の都合に勝つことは出来ないまま、彼女が立海大附属中学に通う事になってからは完全にそこが定住の地となった。片方が青春学園中等部男子テニス部の部長で、もう片方が立海大附属中学女子テニス部の部長…普通ならロミオとジュリエット的に悲恋の雰囲気漂う関係だろうが、ありがたいことに二人のことをほとんどの人間は知らずにいる。それは立海が青学を相手にしていないというのもあるし、青学も立海を単なる通過点としてしか認識していないせいでもあった。幼くして遠距離恋愛を強いられた以外に二人に障害はなかったから、今回の言葉が初めての波風だと素直に思える。
「これで国光がまめに連絡をくれたり、会ってくれたりするタイプだったなら反応も違ったかもよ」
「何を今更」
「まあね」
二人は目を合わせてフッと笑った。
 しかし人間の体はそれほど単純に出来ているわけではない。彼の気持ちとは裏腹に現実がどう転ぶかはわからないだろう。そしてそれは青春学園のテニス部の運命も同様なわけで…ならば余計に梨緒が間に入れる隙間などあるはずもなかった。笑って見送るのが精一杯といったところか。テニスに関してはお互いにそちらを優先させる…それが二人の無言の約束となっていた。
「…心配かけるな」
「えっ?」
「お前も全国に行く直前だったはずなのに、嫌な話を聞かせてしまうことになった」
「嫌だなあ。私って国光にまで心配されるようになっちゃった?」
本人はつとめて明るく振る舞っているようだが、頬杖をついた笑顔がどことなく作られたものだというのは彼には隠すことは出来なかった。
「今更じたばたするつもりなんてないよ? 私だって国光の立場だったなら、同じ事をしたもの」
そう言って伝票を手にスッと立ち上がる。
「おい…」
「ごめん、今日は先に帰るね。これから遠くに行く人を引き留めるのも申し訳ないし。今回はお餞別代わりに奢ってあげる」
「梨緒!」
自分を呼び止めようとする声に、返事の代わりに後ろ向きで伝票をひらひらと振って見せた。
「国光」
「………」
「頑張ってきてね」 
 
 
 
 
 自分と同じ顔をした一卵性双生児の姉が素っ頓狂な声をあげる。
「九州?」
「うん」
手にしていたブルーベリー入りのスコーンとミルクを乗せたトレイを落とさなかったのは奇跡と呼べるかもしれない…新菜の怪しげな手つきを見ながら梨緒はそう思った。もしかしたら国光はこういった素直な反応を期待していたのだろうか。
「手塚くん、本当に九州に行くの?」
「うん」
「突然だね。でも怪我が理由なら仕方ないのかな」
「そうかもね」
「そうかもねって、梨緒ちゃんはそれでも平気なの?」
「だって本人が決めたことだもん。それにテニスのことが絡んでいるのなら、余計に何も言えないよ」
 本気でそんな頼りないことを思っているのだろうか…新菜はそう考えて小さく首をひねった。もっと他に言いたいことがあるのに言えずにいるのなら、本人だけでなく国光も気の毒に思えてならない。このまま離れてしまうのが良いことにはならないのだということは新菜にもわかった。
「それでも突然九州だなんて。そこに故意にしているお医者様でもいるの?」
「そういえば、そんなこと聞いたこともなかったなあ」
ミルクの入ったマグカップを受け取りながら梨緒は言う。
「優秀なお医者様なら東京にもいそうなものだけれどね。部長が近くにいるのといないのとでは、気持ちって随分違うものだと思うし」
新菜がマネージャーを務めている立海大附属中学男子テニス部は、現在部長が重い病で入院している為に頂点を欠いた戦いを続けている。不安な気持ちにかられている青春学園のレギュラーの気持ちも彼女は理解はしていた。そして現在梨緒が抱いている『恋人が離れてしまうかもしれない』不安もまた、痛いくらいにわかっていた。
 心の底では泣いて止めたい気持ちはあるのだろう。しかしそれを実際に行うには、彼女はテニスというものを知りすぎていただろうし、彼の苦渋の選択さえもわかりたいと思うほどに愛していたのもあるのかもしれない。
「私ね、国光が九州に腰を落ち着かせるような気がしてならないのね」
「…はあ?」
突然何を言い出すのか。新菜は危うく飲もうとしていたミルクを吹き出すところだった。
「なんで? そこまで話が出ているの?」
「出ていないけど。まあ女のカンってところかな」
「カンって言っても、あんまり確信なさそうだね…どうしてそう言う風に思うの」
「なんかさ、自分の後を任せられる後輩がいるみたいなの」
同じ顔をした双子は、同じようにスコーンを食べながらしばらく考えていた。
「「越前リョーマ!!」」
 互いの顔を指しながら同時に二人は叫ぶ。違う学校だから実際に見たことはなかったが、梨緒は手塚自身から…そして新菜は男子テニス部の面々からその名前を聞いていた。
「アメリカのジュニア大会で優勝したくらいの実力の持ち主だって柳くんが言っていたなあ」
「だったらあの国光が対戦してみたいと思っても仕方ないと思わない?」
もしかしたらテニスの強い学校に転校して、そこから全国に行って…などと梨緒の妄想はいよいよ止まらなくなってくる。
「でも有り得ないと思うけどな」
「新菜ってばノリ悪過ぎだよ」
「だって、手塚くんって生徒会長もやっていなかったっけ」
「そっか…」
 ミルクを飲んでふうっと息をついた梨緒を、新菜は背後からそっと抱きしめた。
「にっ…」
「本当に梨緒ちゃんてばお馬鹿さんだよ。いつまでそうやって意地張っているつもり? 本当は手塚くんをきちんと見送れなかったこと後悔しているくせに…」
「後悔なんて関係ないよ。あの時私に出来る事なんてなんにもなかったんだもの」
「でもありのままの感情をぶつけてくれた方が救われることだってあるんだよ」
新菜の言葉は静かで重みがある。おそらくは…肝心なことをあまり言いたがらない幸村精市のせいだろうが。
「でも行かないでって言ったら、きっと国光困った顔するもの…」
 梨緒はここで初めて自分が泣きそうな声をしていることに気がついた。頬には一筋の涙が流れている。
「それが本音でしょ?」
叫ぶことが出来ればどれだけ楽になれただろう。でも絶対に出来ない、出来る筈がないだろう。自分だってこんなに不安なのに、実際に行かなくてはならない彼の心情はどれくらいのものなのか。それがわかるから、わざと無関心なふりをしたのだ。心配をかけぬよう自分の心に必死に蓋をして。突然立ち去った自分をあやしまないはずはないのに。
「それでもやっぱり言わない…」
「それでもいいの?」
「元気で帰ってきてくれれば、もうそれでいいよ」
 新菜は抱きしめていた手を緩めてそのまま梨緒の隣に座った。
「ごめんね、新菜も色々辛いんだよね」
「平気よ。だって梨緒ちゃんが側にいてくれたんだもの」
何気ない言葉だったが、それは真実だと梨緒は思った。温和で優しい姉がいなければ、自分はいつまでたっても現実を認めようとはしなかったかもしれない。
「手塚くんが帰ってくるまで、私が側にいてあげるね。寂しくなって色々考えることがあっても…吐き出せる相手がいれば違うものよ」
「ありがと」
二人は同じ顔に向かって微笑んで見せた。梨緒は拳で涙を拭くと、大きく天井に伸びる。
「それなら私も幸村の為に何かをしてあげた方が良いかもね」
「本当に?」
「どうか幸村の手術が成功しますように!」
「どうか手塚くんが九州から元気に帰ってこられますように」
同じ顔をした二人の少女は、まるで合わせ鏡のように両手を握りあいながらそう言った。
 
 
 
 
 
 新菜と別れて自室に戻ると、突然机の上の携帯が鳴った。流れる音楽だけでかけてきた相手が誰なのかわかる。梨緒は慌てて電話に飛びついた。
「もしもしっ」
「…俺だ」
いつも冷静に響く低い声、それは小さな頃から知っている大好きな人のものだった。
「国光…」
「夜分遅くにすまない。ただ…昼間の様子が気になってな」
自覚はなかったものの、それだけの心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。チームを残して旅立たなくてはならない辛さは、本人が何よりも感じていることのはずだったのに。
「寂しい思いをさせることはわかっている。でも俺は…」
「私は大丈夫だから!」
思いがけず出た大声は、相手に言葉を挟むことを許さない。
「私は平気だから。友達もいるし、部員も私を必要としてくれるし…新菜だっているもの。だから国光は何も心配しないで九州に行って。そして早く戻って青学のみんなを安心させてあげて」
 やばい…自然と涙が混ざってゆく声を押さえるために、梨緒は慌てて口を押さえた。先程新菜の前で止めていたのが残っていたのだろうか。このままでは言葉とは裏腹に心配をかけてしまう。もしかしたらこれが出発前最後の会話かもしれないのに。
「梨緒」
「……ごめん、私」
「毎日、連絡を入れる」
「えっ…?」
電話の向こうから聞こえてくる言葉が信じられない。まるで夢でも見ている(聞いている)かのようだ。今まで随分と長く付き合ってきたが、こんな優しい台詞を聞いたのは初めてではないだろうか。
「えっと…国光さん?」
「昼間にお前に言われたことを反省した。いや、わかっていながら寄りかかっていたのだろうな。もし俺がお前にもっと連絡をしていたなら…」
「ちょっと待って!」
気がついた時、本人が目の前にいるわけではないのに手を前に伸ばしていた。
「私、そんなつもりで言ったわけじゃない」
「わかっている。でも距離が離れてしまっても、せめて心は近くにあるということを信じさせてくれないか」
 梨緒の肉体が崩れ、そのまま床にぺたんと座り込んでしまう。再び溢れてきた涙は先程と大きく意味が異なっていた。
「無理だけはしないで…ね」
「ああ」
「私も頑張るから。国光に負けないくらい、それ以上の試合をするから」
「期待している」
「だから…だから…」
涙声の続きを国光は待った。その先に梨緒が言えなかった本音があるに違いないのだから。
「帰ってきたら、一番最初に会いに来てくれる?」
「約束する」
一つの県を跨いだ二人の携帯を握りしめる手に、これまでにない強い力がこもった。
 
 
 
 
 
「でも国光ってさ、メール機能使えるの?」
「俺だって練習すれば使えるようになる…はずだ」
「言っておくけれど、真田は使えるからね」
「…なんだと!?」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
今回は『幸村ヒロイン=新菜』の『双子の妹=梨緒』が主人公のお話でした。男性キャラの数だけヒロインを設定していますが、その中で唯一この二人の女の子のお話だけがリンクしていることになっています。テーマは『ずっと側にいるはずの人が、距離だけでなく心ごと離れてしまったらどーしよう』ということ。ちょっとばかり自己中心的なのは、やっぱり中学生だから。
 
 
 
 
イメージソング   『BELIEVE』   MISIA
更新日時:
2004/10/09
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Last updated: 2010/5/14