365 TITLE

        
15      闇   (切原赤也   マネージャー設定)
 
 
 
 
 それはごくごく静かな秋も深まる午後のことだった。全国2連覇という最高の栄誉を残して三年生が引退し、部長職を引き継いだ二年生が新たなチーム作りに励む頃…唯一一年生で(まだ補欠とはいえ)ベンチ入りを許可された切原赤也は、そのわりにこの日は非常に機嫌が悪かった。
「何かあったのか?」
放課後の練習の為に部室で着替えながら訊ねたのは、彼より一年先輩の柳蓮二であった。少し生意気だが明るく人懐っこい赤也を可愛がってくれている。胸に爆弾を抱えているような今の彼にこうして話し掛けられるのは彼しかいない。
「別にぃ!?」
「そうか…ならば言い当ててやってもいいぞ。これ以上部室の雰囲気を悪くしてもらいたくはない」
 赤也の息が一瞬だけ止まり、慌てて柳の方に振り向いた。彼は全てを承知しているような顔をして、一人の生徒の名前を囁く。
「日生新菜…」
「ぐっっ!!」
その時の赤也の反応は面白いくらい分かり易かった。数歩後ずさりをしながら顔を真っ赤にした時など『ぶわわっ』という擬音まで聞こえたかと思うほどである。
「面白い奴だな」
「からかわないで下さいよっ!」
「一才年上のマネージャーか。悪くはないが、確かに高嶺の花だとは言えるな」
柳は赤也の声を無視して淡々と語りながら、部室の窓を指さす。一緒にそこを覗いていると、後輩たちと一緒に話をしながらボールやネットの仕度をしている彼女の姿が見えた。ショートボブの黒髪を揺らしながら頑張る姿は確かに眩しく映るものだろう。きっと彼らに声をかける時も真綿にくるまれたような優しい声を出しているに違いなかった。
 新菜は外見自体はそれほど目立つ少女ではない。どちらかといえば限りなく地味な方のタイプであろう。そのくせひどくおっちょこちょいな一面もあって、正直なところ有能なマネージャーとは言い難い。しかし絶えず浮かべている優しい微笑みは厳しい練習に耐える部員たちの心を癒し、思いやりのある一言は彼らの不安な心を包み込んでしまう。皆に優しいお姉さんとして慕われるのも当然だった。
「わかってますよ、そんなこと。どうせ俺みたいなガキは日生先輩の相手にゃーならんでしょうよ」
「あまり僻んだ言い方をするな。無意識に口にして、いつ日生を悲しませることになるかわからんぞ?」
「…チッ…」
 おそらく仕度を終えた後の自分が挨拶をしたなら、いつものように彼女は笑顔で返事をしてくれるだろう。でも直情少年の淡い片想いは最早それで満足出来ないほど膨れ上がっていた。他の人間と話していればむかつくし、なのに自分からは満足な言葉さえ発することは出来ない。辛いときにいくら彼女が慰めてくれたとしても、またレギュラー入りを本当に喜んでくれた時も、それはあくまでも先輩対後輩としての感情しかないことはわかりきっていた。
「せめて男として意識してくれればな…」
「確かに日生はそのあたりがひどく鈍感なようだが」
「難しいっすよ。なんか本気で女神様を相手にしているみてぇだ」
「そうか?」
赤也の言葉を否定するように柳は言う。
「女神と呼べるほど単純な存在ではなさそうだがな。本人はあれでも色々と複雑な心境であるらしいぞ」
「何スか、それ」
「日生にも好きな奴はいるということだ。もっともそれは一方的な片想いだと聞くが」
 赤也は一瞬絶句すると断末魔の叫びが部室に響いた。
「えっ…えええええっっ!???」
数歩後ずさりをすると、目を大きく見開いたまま相手を見つめる。それでなくても落ち込み気味の赤也を地獄のどん底に沈めてくれるような話だったからだ。しかし男子テニス部の頭脳とまで言われるこの男が嘘をつくほうが信じられないのも確かだった。
「本気っスか、その話…」
「まあな」
「つーことは、俺告白うんぬんの前に失恋しているってことじゃないスか!?」
柳は赤也の背を軽く叩くと、口元に意味ありげな微笑みを浮かべた。
「強く生きろ」
「ひでっ!!」
 ますますバクバクし始めた心臓を落ち着かせる為に赤也は親指をグイッと強く噛みしめた。頭の混乱は収まりようがないものの、どちらにしろこの疑問には嫌でも辿り着いてしまう。
「誰なんだろう…日生先輩の好きな奴って」
しかし柳はその言葉に何の反応も示さない。
「知っていますね? 柳先輩…」
「そこまでは言わないぞ。プライベートな話だからな」
「ケチ」
「なんとでも」
 たとえ自分がどう言われようとも彼が口を割る気配はなさそうだ。しかし赤也は柳が自ら教えたということ自体に深い意味があることに気付いていない。
「一度思いっきりぶつかっていって玉砕してみるのも手だろうな。そういうのは得意だろう? その結果新しい道が開ける可能性もある」
「…俺、日生先輩以外の女に興味ないっスから」
「それもまた一つの道だ」
柳はそう言い残すと、自身の仕度を終えてそのまま出ていった。一気に静まり返った部室の中で再び赤也は考え込む。
(玉砕…か)
確かにこのまま気持ちを放置しておくよりははるかに自分らしい選択だと言えた。彼女に好きな人がいると知った現在でさえ、胸のもやもやは燻り続けて消え去って行く気配さえ感じられない。ならばいっそのこと…自身も仕度を終えて部室を後にしながら、赤也はずっとそんなことを思っていた。
 空は青く、雲一つない良い天気だった。コートの準備を終えた者たちはすでに練習に入っている。そろそろ顧問の教師も訪れる頃だろう。
「赤也!」
明るい声で話し掛けられて我に返る。
「あっ、日生先輩…」
「どうしたの? 元気ないみたいね。さっき部室でも大声を出していたけれど」
さっき柳から例のことを教わった時に思わず叫んでしまったやつだ。まさか外まで響いていたなんて。
「あれはただ柳先輩に遊ばれていただけで…全然大丈夫っスよ」
「そう、ならいいんだけれど」
さり気ない一言だったが、その表情はまるで自分が一番安心したかのようだった。
(ちくしょ…やっぱ可愛いよなあ)
失礼かもしれないが、とても一つ年上の人とは思えない。しかし同時にこの顔を独り占め出来ないイライラも募ってしまった。彼女がいつもこういう笑顔でいたいと望んでいるのは自分ではないのだ。
(すげっ…くやしっ…)
 そう思ったと同時に先程の柳の言葉が脳裏に蘇ってきた。『一度思いっきりぶつかっていって玉砕してみるのも手だな』…なんとなく悔しい気もするが、それが自分にとって一番すっきりする結論ではないかと思えてしまう。確かにこうして胸に何かを貯めておくのは切原赤也の性分ではない。
「ねえ先輩」
「なあに?」
「今度の休み、一緒にどっか行きません?」
男子テニス部は土日といった休日にも練習は常に予定に入っている。しかしコートの使用状況によっては時々休みがもらえることもあるのだ。赤也も新菜も近日中にそれがあることを知っていた。こんなこと他の部員に知れたら半殺しものであったが。
「私と? 私でいいの?」
「もちろん。相手が俺で申し訳ないけれど」
少しだけ謙遜気味に言ってみたが、新菜は無邪気な子供のようににっこりと笑うと、何度も頷いてくれた。
「行くっ。楽しみにしているね」
 簡単に日程と場所の打ち合わせを始める。お互い休日に会うのは映画あたりが一番いいだろうという結論に達した。まるで本当のデートをするような感じで彼をドキドキさせる。しかしそんなことをしているうちに副部長の怒号の声が聞こえてきた。
「やべっ、もう行かなくちゃ」
「頑張ってね」
その言葉に振り向くと、やはりいつもと変わらない笑顔があった。
「忘れないでいてくださいよ?」
「うん」
今はそれが精一杯だった。
 
 
 
 
 
 そして彼女と初めて二人きりで出かける日が訪れた。外は憎らしいくらいの青空が広がっている。赤也はラフでありながら現代っ子らしさを失わない姿で待ち合わせの場所へと向かった。
「赤也!」
待ち合わせ場所である駅前の噴水前に新菜が立って手を振ってくれているのが見える。余裕を持って出かけたつもりが、まさか彼女の方が先に来ていたとは思いもよらなかった。
「すみません、俺から誘ったのに遅れちゃって」
「気にしないで。ちよっとだけ気が先走ってしまって…こうして男の人と出かけるの初めてで」
 新菜は頬を薔薇色に染めて、遅れてきたことを気にしないようにと全身で訴えようとしている。その仕草が可愛らしくて赤也も自然と笑顔になった。
「先輩こそ俺でよかったの?」
「どうして?」
「どうしてって…こうして一緒に歩く彼氏はいないのかって事」
それは一種の探りでもある。しかし素直な性格の新菜の態度は実にあっけらかんとしたものだった。
「いないよ? 私みたいにトロい女の子相手にしてくれる気の長い人なんているのかな」
それはテニス部にいる彼女の崇拝者が聞いたら苦い溜め息をつきそうなお言葉だった。しかし赤也は一瞬だけ自分にも多少の見込みがあるのではないかと思ってしまう。でも彼氏がいない=好きな人がいないという結論はいささか単純すぎた。一方的な片想いなのだと柳もきっぱりと言い切っていたではないか。
「まあ、いいけどね…そんじゃ行きます?」
「うん」
 2人はゆったりと世間話をしながら近くのデパートに急いだ。そこの最上階にはいくつものスクリーンが集まったシネコンがあるのだ。流石に彼女の映画の趣味を柳に訊ねるのはしゃくだったから、ここに来れば何か一つは自分たちにも合う映画があるような気がした。
「何見ます? やっぱ恋愛モノが好き?」
「んー、でも赤也にまかせるよ。私は楽しい感じの奴が好きだけれど、それはそっちも同じでしょ?」
自分が誘ったのだからと代金は支払おうとしたが、それは『こっちも楽しみにしていたから』とやんわり拒否され、何も言えなくなってしまった。なんとなく自分が後輩であり、年下の男なのだということが意識されて寂しい気持ちになった。
「どうしたの?」
「いや…なんでも」
 2人が選んだ内容は今話題になっているアクション大作だった。迫力もあれば笑いもあるしロマンスもあるという有り難いコースである。面白くなくてもそれなりの話のタネを提供してくれそうだ。しかし赤也の頭の中はそれどころではないのが現状だった。もうすでに玉砕のカウントダウンは開始されていたのだから。
(もしこれが本当のデートだったなら…)
それでも何度もそう思っては、必死といった感じで振りほどいていた。新菜はそんな赤也を気遣いながら、それでもとても楽しそうにしている。パンフレットを見ながら役者や物語の話題を自ら振ってくることもあった。ここで慌てなくても、もしかしたら努力次第で振り向いてくれるのかもしれないと期待させる雰囲気だ。そしてやがて映画の始まりを告げるブザーが鳴り響いた。
「始まるっスね」
「うん…わあ、なんかドキドキ」
 映画館の中はほどほどの人で埋まっている。ある程度の混雑する時期は過ぎていたらしく、それでも2人のような男女のペアも沢山存在しているようだった。暗闇の中でスクリーンが大きく開き、そこからもの凄い迫力の映像が飛び出してくる。
(そういえば映画見るのなんて久しぶりだよな)
赤也も新菜も日頃はテニスに集中し、こうして出かけることも多くはなかった。そんな2人を流行の映像が否応なしに飲み込んでゆく。しばらくは物語を追いかけるのに必死だったが、それでも主人公とヒロインが反発しあいながらも愛し合うようになった時には映画館全体に甘くて切ない雰囲気が溢れてくるようになる。
「ロマンチックだね…」
新菜が何気なくぽつりと言った。それは赤也に話し掛けているのではなく、登場人物に感情移入した結果に出てきた正直な感想だったのだろう。
「そうっスね」
 やがて物語は終盤へと突き進み、世界全てに希望を与えるような美しい大団円を迎えることになる。エンディングロールが人気歌手の歌うエンディングテーマと一緒に流れてきた。
「ねえ、最後までここにいてもいいかな?」
新菜が赤也の耳元でそっとささやく。
「なんで?」
「しばらく浸ってから帰ろうかなと思って」
「いいっスよ」
その気持ちもわかるかもしれないと思い、赤也もそれを素直に快諾した。もう少しこういう時間が長く続いて欲しいという願いもあったのかもしれない。
 新菜はそのまま自分の手を手すりにおいたまま画面を見つめていた。赤也の手は自分の膝の上だったり胸元で組んでみたりと落ち着かない。しかし胸に何か迫るような想いがあったのだろうか…彼はやがてその手を静かに彼女の手の上に重ねた。どうとでもなれという気持ちもあったが、これはもう雰囲気に流されたに近いものもある。それでも玉砕覚悟とはいえ、これ以上のシチュエーションもそうそうあるまい。最後の最後で…神はどちらに傾くのかは未だわからなかった。
「赤っ…?」
「お願いだからそのまま聞いてくれません?」
小さな手を握りしめるのに力がこもった。確かに片想いの時間は数ヶ月かもしれないが、そこには年頃の男の子の純粋な気持ちが集中していたのだ。
「俺…ずっと日生先輩が大好きだった。これまでもずっと先輩のこと見てた」
 2人の座席の周りにはあまり人はいなかった。それらの言葉は本当に新菜だけに捧げられたものだ。しかし…。
「嘘だよ…ね?」
震える声からは少し涙が混じっているような感じがした。
「嘘でこんなこと言えるわけないじゃないスか」 
2人の手は今もしっかりと繋がれている。そして彼からはどこか鬼気迫るような何かが感じられて逃げたいようなしんきょうになってしまう。まるで狼に睨まれた小さな小鳥…いや、それだけではないだろう。映画のロマンチックな内容から繋がっているような告白が自身に相応しいかどうかを思うと、完全に萎縮していたのかもしれない。 
「嘘じゃなきゃ何の冗談…」
「先輩!?」
手すりの上で重なった手を振り切るようにして、新菜はそれを自分の胸元へと引いてしまった。
「ごめんなさい、私っ…」
 小さな声を震わせながら新菜は暗闇の中に立ち上がる。突然の思いがけない告白に驚いたのか、それとも傷ついたのか…覚悟したこととはいえ赤也もまた心を痛めている。どうせならば知らないふりをしてくれればよかったのにと思うが、おとなしい性格の彼女には無理だったのだろうか。荷物を抱えてパッと立ち上がると、そのまま僅かな光を頼りに出口へと走り去ってしまう。
「先輩? 日生先輩!」
エンディングロールがまだ画面を流れる中、赤也も自分の荷物を手に必死の形相で新菜の元へと飛び出して行った。
 
 
 
 
 
 
 人混みの中を転がるようにして走る新菜を赤也は必死になって追いかける。確かに自分自身が玉砕することはいくらでも考えられたが、彼女をこうして泣かせてしまうことだけは想定外だったのだ。
「待って…待ってよ先輩!」
いくら追いかける立場とはいえ、2人の運動神経の差は歴然としている。逃げる新菜の細い腕を掴むのに時間はかからなかった。
「先輩…」
赤也は立ち止まった新菜を強引に自分の方へと振り向かせるが、その時の彼女の表情を見て愕然とした。
「どう…して…」
「えっ?」
「どうしてあんなこと…言った…の?」
 綺麗な目からは涙が溢れてきている。あっと言う間にそれは頬を伝い、喉からもヒクヒクといった嗚咽が出てきた。
「どうしてって…でも俺は嘘なんて言ってない! 本当に先輩のこと…」
しかし新菜は必死といった形相のまま首を大きく横に振った。
「そんなことない! だって有り得ないもの…私、本当に何も出来ないし、赤也みたいな才能のある人に相応しいわけないもの」
 彼女がそんな風に自分を思っていたとは知らなかった。申し訳ないことをしたようで後悔の念がじわじわと広がって行くのを感じる。でもだからといって引っ込みがつくわけがなかった。ましてやこんな街の中だ。
「どうしてそんな風に思えるんだよ! そんなに俺のことが嫌なら…他に好きな奴がいるんならはっきり言えばいいじゃん。こっちだってなけなしの勇気はたいてここにいんだぜ!? なんかすっげーバカにされた感じッ」
 それだけ言い切った直後に2人の間に流れた空気はとても言葉では表現出来なかった。
(やっ、やばい…)
こうして喧嘩腰に物事を言うのは最早彼の癖のようなものだったが、今回ばかりは事情が違う。相手は同じテニス部に所属する先輩だったからだ。しかもこれまでの自分を色々と支えてくれた大切な…そもそもブン太やジャッカルと話すようなやり方を決してしてはならない人物なのだ。赤也がごくっと息を飲んだ時、新菜は驚いたかのように呆然と相手を見つめていた。
「すみません、せんぱ…い」
「どうしてそのこと知っているの…?」
「へっ?」
「私好きな人がいるってこと誰にも言ったことないのに!」
 そう叫んだ新菜の顔が次の瞬間には真っ赤に染まった。慌てて手で顔を被い、体はガタガタと震えている。
「先輩落ち着いて! 俺が悪かったから…こんなに嫌な思いをさせるつもりなんてなかったんだ」
肩をしっかり掴んで覗き込む様子はまるで抱きしめているかのように思えたが、本人たちはそれを気にしている余裕はない。
「誰が言っていた…?」
小さな声で問われると答えなくてはならないような気持ちになる。
「これは…柳先輩が…」
もともと片想いの相手がいると言ったのも柳だし、玉砕をけしかけたのも柳だ。ここまできたら半分はその罪を背負ってもらわなくてはやってられない。
「なんで柳くんが私のことをそこまで知っているのーッ!?」
それはこっちが聞きたいものだと思った。なんせあの人は赤也の気持ちさえとっくの昔に見抜いていた人物なのだから。
 赤也は新菜の肩から手を離すと、そのままじっと彼女を見ていた。余程ショックだったのか再び涙が溢れてきている。何度も手で拭っても止めようがないらしい。
「私、ずっと言えなかったのに…」
「すみません」
「だって私の方が一つ年上だし、赤也は立海のテニス部の将来を背負う優秀な選手だし、明るくてみんなに好かれていて…だから私なんて相応しくないんだって思ってて。だからただ見ているだけでいいんだって言い聞かせていたのに。このことは絶対誰にも言わないって決めていたのに…酷い…」
もうどうにでもなれといった心境だったのだろうか。彼女の口から次々と思いがけない言葉たちが飛び出してくる。
「ちょっと待って先輩。もしかして先輩の好きな人って…」
「だって柳くんから聞いていたんでしょ? 私が赤也のことが好きなんだって」
 赤也の脳裏に柳蓮二のあの意味深な笑いが蘇ってきた。
(もしかして、あの人全部知っていてーッッッ!!!)
「それで私をからかうためにわざとこうして誘ってくれたのでしょ。私…夢みたいだって本当に嬉しかったのに」
いつも穏やかで優しい女の子とは思えないくらいの怒りの込められた冷たい言い方だった。でもそれは仕方ないのだろう、彼女とてずっと淡い片想いを抱きしめていたのだから。今回のことでそれが汚されたと思ったとしても無理はない。
「違うッ! 俺は確かに柳先輩から片想いの相手がいるってことは聞いたけれど、相手までは全然教えてもらっていない。まるっきり反対だよ…どうせ失恋してしまうのなら思いっきり玉砕してやろうって思って。どうせならどこかに一緒に出かけてその先で『好きだ』って言おうって決めて」
「え…っ!?」
「本当だよ。俺だってずっと日生先輩のことが好きだった。いつも優しくて、先輩が側にいてくれると本当にホッとする。だから好きな奴がいるって聞いた時は、そいつのこと本気でぶん殴ってやろうかとも思った」
泣けばいいのか、それとも笑っていいものなのか。2人の心情は正直ぐちゃぐちゃだったに違いない。一緒に楽しんだ映画の内容も完全に飛んでいた。
「自分で自分のことを殴っちゃうの?」
「出来ればそうしてやりたいよ。ごめん…もう二度と傷つけたりしないって約束する。だからさ、これからは本当に俺と付き合ってくれる? 先輩とか後輩とかそんなんじゃなくて」
新菜は俯いてしばらく考えていたようだが、やがて真っ直ぐに彼を見つめると小さく頷いた。あらぬ疑いやら嫉妬やら無茶苦茶な言い合いの末には、まるでコメディー映画のような最高のハッピーエンドが待っていたのだ。
 
 
 
 
 
 そして週明けの男子テニス部…放課後の厳しい練習を終え、赤也はあの時と同じように柳と並んで着替えを始めていた。部長と副部長は顧問と話をしているらしく、未だ戻ってくる気配はない。しかし幸せな筈の赤也の顔はあの時のように厳しかった。
「片想いを実らせた男のする顔ではないな」
「だって俺は今回は柳先輩に遊ばれたようなもんじゃないスか。結局新菜ちゃんの片想いの相手っていうの…俺だったわけだし…」
言葉の最後が小さくなってゆく赤也を見ながら柳は大声で笑う。つい先日の出来事でありながら、もう相手を名前+ちゃん付けで呼ぶようになったらしい。
「お前の尻に火をつける役割を担ってやったんだ。反対に礼を言われても良いくらいだと思っているのだが」
「それは…そうなんですけど…」
結局何を言ってもかわされてしまうのだった。でもそれも仕方ないのだろう。赤也自身今の状況に少しも不満はなかったのだから。
 すると突然部室のドアが外からコンコンと叩かれる。同時におっとりとした女の子の声も聞こえてきた。先に仕度を終えて、彼氏と一緒に帰る為に迎えに来たのである。
「赤也いる? 先に校門のところで待っていようか?」
「やべっ、新菜ちゃんが来てる…今すぐ行くから、そこで待ってて!」
慌てて制服の上着に腕を通し、そのせいで乱れてしまったまま鞄とラケットケースを手にする。
「そんじゃ俺、先に行きますね」
「気を付けて帰れよ」
「はーい。お先に失礼しまーっす」
赤也が慌てて飛び出してゆくと、それまでのやりとりが嘘のように静まってゆく。部室の窓から仲良く並んで帰ってゆく2人を見守りながら、柳は小さく呟いて笑った。
「結局は、幸せになった者の勝ちということだ…頑張れ」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
影の主役は柳くんですね。どうして柳くんが新菜の気持ちを知っていたかというと…『伝説の時代』というお話を見ていただけると、ちょっとだけわかるかも。
 
 
 
 
イメージソング   『Kiss You』  EXILE 
更新日時:
2005/10/01
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Last updated: 2010/5/14