学園祭の王子様

5      ラッキーガールに花束を   (跡部景吾)
 
 
 
 
 
 それはちょっと前までは怖くて 夢で見ることしか出来なかった事
 唇から伝わってくる熱さも
 体中に大きく響く鼓動も
 何度も繰り返される『好き』という言葉も…
 
 ーでもそれは全て 私の前に降りてきた現実の出来事なのー
 
 
 
 
 カーテンの隙間から零れる光を受けて、ゆっくりと目を開ける。壁の時計が指しているのはいつもより少しだけ早い時間のようだったが、それでもいつもの見慣れた自室の風景がそこにはあった。
「朝…か」
広瀬静はベッドに横になったまま自分自身に言い聞かせるようにそう呟いたが、今は彼女の体全体を甘い余韻なようなものが包み込んでおり、なかなかすぐに起きることは出来なかった。しかしカレンダーの本日の日付は9月5日の月曜日となっている。当然これから氷帝学園まで登校して授業を受けなくてはならない。でも静が急がなくてはと思えば思うほど昨日の出来事が脳裏に鮮やかに蘇ってくる。
(跡部先輩…)
 その名前を口にするだけで…脳裏に思い浮かべるだけでキュッと体が縮こまり、カーッと熱を放っているような感覚に陥る。しかしその体とてもう自分の為だけの物ではないことを静は実感していた。愛している人に愛されるということは、それまでの意識をガラッと変えてゆく力がある。意識してしまうことが恥ずかしくて目をギュッと閉じると、今度は彼を象徴する髪の金と瞳の青の色が闇の中を広がってゆくのが見えた。早く会いたくてたまらないのに、その時が来たら何を言えば良いのだろう…ため息はいつになく甘かったが、それ以上に深くもあった。
 しかしいつまでもそうしているわけにも行かない。夢見心地の気持ちのまま階段を降りてキッチンに入る。仕事の忙しい両親の為に朝食の準備をしなくてはならないからだ。トースターにパンを入れた後に作るオムレツの中にはチーズとツナを入れ、サラダはトマトとレタスのシンプルなものに市販のドレッシングをふりかける。バターと手製のマーマレードを冷蔵庫から出した頃に紅茶を入れるためのお湯が沸いた。
「おはよう、静」
「あっ、ママ…」
 仕事人としては相当なキャリアを積みながら、家庭の中では不器用さを露呈している母親である。そのせいか必然的に一人娘の静がしっかり者の家庭を守る人になっていたのだ。手早く彼女の為に紅茶を入れる。
「どうかしたの?」
「えっ…」
「なんかひどく興奮しているように見えるわよ」
家事の一切を放棄してはいるが、それでも娘への深い愛情は疑いようもない。いつもと違う静の様子を母は見抜いていた。
「そのままの状態で学校に行けるの?」
「うん平気…とりあえず朝はフルーツジュースだけにしておくね」
「そう、なら良いのだけれど。もしなにかあったら必ず話をしてね」
「ありがとう、じゃ行ってきます」
静が外に出てからも、母は窓から顔を覗かせて手をふりながら見送ってくれる。時に実の姉のような顔を見せる母に静も大きく手を振ってから駆けだしていった。
 
 
 
 
 
 
 暦の上では秋を迎えていても、降り注ぐ日射しはまだまだ強い熱を帯びている。いつもと変わらない通学路だったが、静の気持ちの面では昨日までとは随分変わってしまっていた。今までは辛い出来事があっても自分の胸の中にしまっておくことは出来たが、これからはそうもいかない。もし何かを言われることがあったとしても立ち向かえるだけの力は欲しいと思った。少しでもあの人に相応しい人間になれるように…。
「おっはよ、静」
 通りすがりに幾人かの生徒が彼女の肩を軽く叩いてゆく。そして形は違えど温かな言葉たちも添えられることが多かった。クラスメートや旧知の知人たち…そして学園祭を通じて知り合った者も多い。彼女の今の立場を知りつつも、変わらぬ友情を貫こうとしてくれている者たちでもある。
「今のところは大丈夫そうだね」
「まあね…少し緊張しているけれど」
「もうちょっと胸を張りなさいよ。あんたはあの跡部氏自身が選んだ人間なんだからね。それを知った上で悪戯メールをする真似が出来た人間は言われたとおりに潰されても文句言えないって」
昨夜の彼の言葉を再現した友人に恥ずかしそうに微笑んで見せた。
 知っている顔とそんなたわいのないやりとりをしているうちに氷帝学園の門が見えてくる。そこには沢山の生徒たちの姿があったが…。
「…えっ?」
そこで静は生徒たちの信じられない動きを目撃する事になる。適当に群れていたはずの彼ら彼女らは、静の姿を発見すると同時に左右に分かれて整列し、まるで彼女の花道のようなものを作り上げたのだ。それはまるで…。
「俺こういうのテレビで見たことあるぜ。荒れ狂う海が突然ぶわーーーっって割れて道みたいになんのな」
「モーゼの十戒やね」
緊張した空気を破るような脳天気な声を聞いて慌てて振り返る。そこには学園祭を通じて親しくなったテニス部員の姿があった。
「おはようございます、向日先輩に忍足先輩…」
「よお」
「おはようさん。しかしえらい大変みたいやね、自分」
 大変というよりは、突然の出来事にどう反応して良いのかわからないというのが正しいところだ。
「どうしてこんな風になったのかもよくわからなくて」
「バーカ、こんなの渡っちまった方が勝ちだって。いこーぜ侑士」
向日岳人は静の先に立つと、悠々と花道を歩き始める。忍足侑士は静の後ろに立って前進を自然に促した。
「確かにこんなん一時的なもんやろ。気にせんと行こうや」
お姫様を間に挟んで登校する騎士たちはとても上機嫌であるらしい。
「中には私の事なんて知らない人もいるのに…変な気持ちです」
「別に気にすることねーって。連中が見ているのはお前のバックにいる『跡部』って存在だろ? 奴の親戚連中が理事長の肩をポンって叩くだけで何人の人間が退学になるんだろう…有名な話だよ」
「えっ?」
 声を震わせて立ち止まる静を見て、二人はからかうように笑い出した。
「そんなこと本人がするわけないやろ。ミーハーな取り巻き連中なんて最初から相手にしてへん。そいつらがどんな人生歩もうと関係ないってな」
「そうそう。こんなのにめげないで散々いちゃついてやりゃいいんだよ。そしたらここにいる連中にとっても当たり前の光景に…」
そう言いかけた岳人は突然絶句してしまい、そのまま軽くて有名な足も止めてしまった。当然後ろから一列に歩いている後ろの二人はアコーディオン状に背中へとぶつかってゆく。
「どないしたんや、岳人…」
「悪りぃな侑士、これモーゼの十戒なんてもんじゃねーみたいだ。俺達ただ単に花嫁の父親役やらされただけのようだぜ?」
「はあ?」
なにわけのわからん事を…と言いながら前方を向いた忍足にも、その事情はすぐに飲み込むことが出来た。
「前を見てみい、広瀬」
「えっ…?」
 中等部校舎の入り口には西洋風の柱が幾本も並んでいる。その前には彼らがよく知る一人の男が寄りかかっていたのだ。その姿を見た静の心臓音が体全体を支配するかのように高鳴ってゆく。彼…跡部景吾が柱から背を離したと同時に、花道を作って彼女を見守っていた一般の生徒たちが一斉に拍手と歓声を浴びせ始めたのだ。
「おめでとう!」
「よかったね、広瀬さん」
「幸せになれよーっ」
ここでどうして岳人が自分と忍足のことを『花嫁の父』と称したのかがわかった。氷帝の生徒たちは誕生したばかりの恋人達の為にヴァージンロードを作ったのだ。もしこれが景吾の指示したものだったとしても…これだけの歓迎の渦はそうそう見られるものではない。
「どう…して…」
「自分の頑張っている姿を見ていた連中もいっぱいおったってことやろね」
「5年後あたりのいい練習になったじゃん。ほら、行って来いよ」
 それが本当の意味での数年後の練習ならば花嫁役の少女はゆっくりと歩いてゆかなくてはならなかったのかもしれない。しかし今の静は溢れる涙を拭こうともせずに、そのまま校舎に向かって駆けだしてゆく。行く先はいつもの教室ではなく、ずっとまっていてくれた大好きな人の腕の中だった。
「…先輩ーっ」
 
 
 
 
 
 
END 
 
 
 
 
あの衝撃のエンディングの翌日のお話ということで。とにかく誰から見ても幸せな二人が書きたかったのです。あとは「もう二度と静ちゃんがいじめられたりしないよーに」な部分を私自身が納得したかったのかも。本当は氷帝レギュラー全員を出したかったのですが、今回はチームの象徴として(もちろん個人的好みもありますが)岳人と忍足くんに出てもらいました。
更新日時:
2006/01/07
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12