学園祭の王子様

21      包み込むように…   (橘桔平)
 
 
 
 
 
 ピピッ…ピピッ…という電子音がして、静は脇から挟んであった体温計を引っぱり出す。38・0…そこには静にとって絶望的な数字が刻まれていた。
「なかなか下がらないなあ」
そう言いながらため息をつくと、同時に激しく咳き込んでしまう。喉が落ち着いてから体温計をサイドテーブルに戻した瞬間頭がフラフラしてきた。
「情けない…本当にどうしちゃったんだろう、私」
自室のベッドに縛り付けられてからもう三日になる。季節の変わり目に体調をおかしくしてしまったようだが、まさかこんな状況になるとは思っていなかった。静自身の予想では今日にも学校に通える筈だったのに。
 静かな部屋の中をただ壁掛け時計の音だけが響く。両親は以前より予定に入っていた法事へと出かけており、階下には一切の人の気配もない。父も母も病気の一人娘を残してゆくことを心配していたが、大したことないと言い張る静によって半強制的に送り出されたのだ。しかしその時の彼女は、病人が一人で留守番することの寂しさと切なさに気がついていなかった。
「せめてママに残ってもらえばよかったかな…」
こんな状態では近場の病院にも行けない。なんとか市販の風邪薬とスポーツドリンクで平静を取り繕うのが精一杯だった。
 その時、薬の横に置いてあった携帯電話が可愛い音をたてる。どうやら誰かからメールが来たようだ。友人たちとの唯一の交信手段として、常に枕元にそれを置くようにしていた。
『もう三日目だね。まだ風邪直らないの? 授業のノートはいつでも写させてあげられるけど、そろそろしぃの元気な顔が見たいな。  Anne』
「杏ちゃん…」
送り主である橘杏という少女は、メールの自分の名前に必ず『e』の文字を加えている。それは相手が心を許す腹心の友である証なのだそうだ。テニス一筋の彼女からは想像もつかないロマンチックな行為に驚きつつも、以来静はますます杏のことが大好きになっていった。
「返事、返事…」
 指を動かせばすぐに伝達できる携帯電話とは実に便利なものだ。すでに指が覚えている相手に言葉を綴って行く。
『心配かけてゴメンね。もう少しで学校に行けると思うから。私も杏ちゃんといっぱいお喋りしたいよ。 静』
本当は『もう少し』がいつになるのか見当もつかなかったが、そうであってほしいと祈るような気持ちで送信する。すると不思議と心が落ち着いてきたような感じになった。独りぼっちの寂しさがメールのおかげで少しだけ癒えたのかもしれない。
「ありがとう、杏ちゃん」
 携帯電話にペコッと頭を下げて再び布団を口元まで引き寄せる。そろそろ眠りの波が訪れたのかと思った時…置いたはずの携帯電話の着メロが聞こえてきた。しかも一度ではなくひっきりなしにメールが届いているといった状況だ。
「えっ? えっ? なにがあったんだろ」
いたずらメールが多い昨今でも、静がこんな経験をするのは初めてのことだった。再び上半身だけ起きあがって携帯を取り、液晶画面を凝視した。
「みんな…」
それは静の病状を心配した友人たちからのものだった。長期欠席を知りながらなんとなく遠慮していたクラスメートたち、病気を知らずに心配していた者たち、そして学園祭の時に知り合った他校の知人たち…おそらく杏はメールを見ただけで静の寂しさに気がついたのだろう。それは彼女の持つ情報網の成果であるとも言えた。
 そのメールの内容も様々で、特に静がマネージャーを務める不動峰中男子テニス部メンバーからのものは思わず笑ってしまうほどに彼らの個性が溢れていた。静が好きそうな新曲を入手したから早く聞かせたいと言う者もいれば、無理をしやすい彼女に対して長々とぼやく人物もいる。それに学園祭での優勝とテニスの全国大会出場によって不動峰中の部員もそれなりの数が集まり、でもだからこそマネージャーの不在は相当痛手であるらしく、中には悲痛な訴えをする者もいた。
「みんな…ありがとう」
今は直接言うことは出来ないが、それでもメールの一通一通にキスしたいような優しい衝動にかられる。
 みんなの優しさにふれて幸せなのは確かだったが、そうなると我が儘な気持ちが不思議と胸を支配し始める。
「やっぱり来てない…か」
何度履歴を繰り返し見ても、静が一番気にかけていていてほしい人の名前が見つからない。
「仕方ないよね。引退しても監督としてテニス部を支えなくちゃならないんだし、受験だってあるもの…」
実の妹である杏が彼に対してだけ連絡を入れていない筈がなかった。おそらくは手放せない用事があるのだろう。日頃はそれは当然の事だと思えたが、今日に限ってその現実が苦しくてたまらなくなる。
(でも…会いたい)
そう思ってしまうのは…彼の負担になりたくないと思いながらもどうしても願ってしまうのは、今の自分が弱っているせいなのだと静は自分の胸に言い聞かせる。携帯をサイドテーブルに戻すとそのまま布団の中に潜り込んでしまった。
 
 
 
 
 
 少しだけ眠りかけたその時、ピンボーンという軽快な音が階下から聞こえてきた。ぼんやりしていた静がその音が玄関のチャイムなのだと気がついたのはそれから数十秒後のことである。
「お…客…さん?」
両親から特に来客の予定は聞いていない。しかし訪問販売や宅配便の到着など、チャイムが鳴る理由はいくらでもある。静はふらつく体に鞭を打つようにしてベッドから立ち上がった。この状況ならば居留守を使ってもいいような気もするが、それをしないのが静という女の子だった。
 階段を一段一段気を付けて降りて行く。そんな間でもチャイムは鳴り続けていた。
「は…い、どちら様でしょうか」
インターホンに向かって苦しそうに声を絞り出す。訪問販売や宗教の類ならこれで帰ってもらえる理由になると思ったが、しかし向こうからは意外な声が聞こえてきた。
「静?」
「えっ…」
「俺だ。わかるか? 急に訪ねて申し訳ないと思うが、杏から話を聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ」
その心配げな声を聞いて静の鼓動が一段と強く跳ね上がる。会いたくて会いたくてたまらなかった大好きな人の声…もしかしたら世の中には神様がいて、辛かった自分の願いを叶えてくれたのだろうか。
「桔平…先輩…?」
「そうだ。見舞いに来たんだが、ドアを開けてもらえないか?」
実の妹から初めて恋人の病状を聞かされた彼は相当慌ててここに辿り着いたに違いない。それでも息がまったく乱れていないのは流石だと思った。
「いっ、今開けますね」
 ふらふらした足取りで玄関へと辿り着く。ドアの向こうから見える大柄な影は間違いなく橘桔平のものだった。静が扉を開けると同時に向こうも思い切り引っ張ったようで、彼女の体は彼の腕の中に飛び込んで行くような形になった。
「きゃっ…」
「おっ、すまんな」
桔平の逞しい腕に支えられて静もなんとか足を地につける。
「私こそごめんなさい。でもまさか先輩に来てもらえるなんて思っていなくて…」
「いや、玄関まで降りてくるのも大変だったろう。それでも心配でたまらなくてつい押し掛けてしまった」
 頬のあたりを指先でポリポリと恥ずかしそうにかきながら、それでも彼は静の大好きな笑顔を見せてくれた。
「だがこれもいい機会だと思ってな。よかったらご馳走させてもらえないか? そう思って大急ぎで用意をしてきたんだ」
桔平がポンと叩いたのはパンパンに膨れたトートバッグだった。
「先輩、それってもしかして…」
「本当はスポーツドリンクや果物を差し入れた方がいいとはわかっていたんだ。でもここで栄養のあるものを作ってやりたいと思って」
 トートバッグの中には幾重にも重ねられたタッパーウェアが入っていた。彼が料理好きなことは知っていたが、手早くこれだけのものを用意するのは大変だっただろうと静は思う。
「いいんですか、本当に」
申し訳なさそうに俯いてしまう静の頭を大きな手のひらが撫でてくれた。
「俺のやりたいことを、そして出来ることをするだけだ。もしよかったら台所を貸してはもらえないか」
「はいっ。じゃあこちらに…」
 いつもの調子で先に立って案内しようとすると、体がフラフラと揺れてその場に倒れそうになる。大きく左右に動いた体を桔平が必死に受け止めてくれた。
「きゃっ!?」
「おいおい、まだ本調子ではないことを忘れるなよ」
ここ数分の間に何度彼に抱き締められたのだろう。汗をかいたままのパジャマを着た自分が恥ずかしくてたまらなくなる。
「仕方ないな…ほら」
桔平はバッグを腕にかけると、そのまま両手で静の体を持ち上げる。
「せっ、せんぱいっ」
「これなら無茶のしようがないだろう。このまま部屋に行って休むか? 台所の使い方なんてうちと変わらないだろうし」
「そんな失礼なことっ…あのっ、一緒に行きます。こっちです…」
静にとって彼氏にしてもらう人生初のお姫様抱っこの瞬間は、こんな状況で訪れたのだった。
 
 
 
 
 ここ数日の間人の気配がほとんどなかったダイニングキッチンは、自分が想像していた以上に冷たく寂しく見えた。桔平は近くにあったソファの上に静を降ろす。そして背もたれのところにかけてあったタオルケットを手渡した。
「本当は自室のベッドに横になっているのが一番なんだがな…」
それでも彼は納得いかない表情を隠さない。
「いいんです…大丈夫です」
「しかし」
「先輩がお料理を作ってくれるところを見たいんです」
「そうか…」
そう言われるとやはり気分が良くなるものなのだろう。桔平は静のまだ熱を保った額をそっと撫でて、バッグを手にキッチンの中に入っていった。
「今温まるものを作ってやるからな」
「はい」
 ソファの上に横になりながら頭に置くクッションを高く積むと、キッチンで動き始めた桔平の様子がよく見えた。もちろんそれはテニスをプレイするときの動きとはまったく違うけれど…あの学園祭の時にみんなと作り上げたお化け屋敷のことを思い出すのだ。もちろん今は思い出と共にあとかたもなくなくなってしまったが、それでも静にとっては桔平との出会いの場所でもある。
「冷蔵庫の中を使わせてもらっていいか?」
急に問われて、静は慌てて我に返る。
「あっ、はい…大したものは入っていないと思いますけど」
「そんなに謙遜するな。随分ときれいに整頓されている…杏にもよく言って聞かせなくてはな」
桔平は女の子らしい静と友人になることで、少しは杏がおしとやかな性格になってくれないものかと切望しているらしい。もっとも二人はお互いの正反対な性格故の友達づきあいを気に入っているから、世間では彼の思うようにはいかない説の方が根強いのだが。
 冷蔵庫の中から桔平が真っ先に取りだしたのは牛乳と玉子だった。それから冷蔵庫の横のポケットから見つけたお菓子づくり用のブランデーとハチミツも一緒に取りだした。いずれも仲良くミルクパンの中に投入され、そのまま火にかける。
「甘いいい香り…」
「これは洋風の卵酒だ。少しブランデーの香りのするカスタードだと思えばいい。飲みやすくて美味いぞ。杏なんて風邪をひいてもいないくせにやたらと飲みたがる時がある」
将来は酒豪になりそうで心配だ…と付け加えたところで静は思わず笑ってしまった。やがて完成したそれは愛用のマグカップに注がれて、病人の前に差し出される。
「美味しいです、とっても」
「そうだろう。ここにいても少しは落ち着くはずだ。具合が悪くなったら言うんだぞ」
恋人でありながら、彼の言葉はどこかお兄さんのようで、父親のようで…無条件に許されるような特別な愛情をその背中に感じてしまう。静はこくんと頷いて、そのままキッチンへと入る彼を見守っていた。
 キッチンからは彼が引き続き何かを刻んだり、煮込んだりしている様子が見える。どうやらお粥というよりも雑炊かリゾットに近いものを作っているらしい。タッパーの中からは米と一緒に細かく刻んだ鶏肉やキノコ類が出され、小さな土鍋の中には携帯用のポットに入っていた手製のスープが注がれる。
(いい香り…あとでレシピを教えてもらわなくちゃ)
 それにしても先程まで寂しさで泣きそうな気持ちでいたのが嘘のようだ。迷惑をかけてしまっていることは承知していても、でもこうして自分の為だけに動いてくれる彼の存在が嬉しくてたまらない。今となっては風邪をひいたことにも、両親が不在であることについても感謝したい気持ちの静だった。ちょっと有頂天な考えかもしれないが、明日になればきっと学校に行けるようになるだろう。あの明るい親友と一杯お喋りをして、テニス部にも顔を見せて…。
「どうした、なにか可笑しいことでもあったのか? まさかあの程度のアルコールで酔っぱらったとかないだろうな」
「ふふっ、大丈夫です」
 
 
 
 
 
 
ー体はまだフラフラするけれど 大好きな人に見守られて 今すごく幸せですー
 
 
 
 
END
 
 
 
 
今回初めて峰のお話を書いてみました。あの橘部長とのおいしいエンディング前のやり取りということで…杏ちゃんと静はここでは親友同士という設定です。しんどい風邪ひき物語のはずなのに、何故かほのぼのしてしまうのが不動峰クオリティ。
更新日時:
2006/09/18
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12