学園祭の王子様

18      君の弱さ   (日吉若)
 
 
 
 まだまだ残暑厳しい八月の末…午後七時を過ぎてもまだ太陽が地面を照りつけており、駅前の人通りも多かった。そんな帰宅途中の人混みの中から荷物を抱えた女性が出てくる。
「すっかり遅くなってしまったわね」
少し乱れた髪を左右に拭いながら一歩足を踏み出そうとしたその時、突然彼女の背後へ声をかけるものが現れた。
「おーい、カナちゃーんっっ」
慌てて振り向くと、人混みの向こうで背の高い男性が大きく手を振っているのが見える。
「あっ、まーくんだっ」
 周りの視線をものともせず互いに手を大きく振りながら駆け寄る姿は、まるで結ばれて間もない初々しい恋人達のようだった。そしてそれがミルキーウェイを隔てた末の再会のように必死の形相で抱き合っている。
「今日は随分と早く終わったのね」
「まあね。今日は静と一緒に家でカナちゃんを待てると思っていたんだけれど…会えて良かったよ」
「本当にね」
二人はホッと一息ついて微笑みあうと、『まーくん』こと広瀬雅人さんは『カナちゃん』こと広瀬香苗さんの荷物を半分引き受けながら並んで歩き始める。無論周りの唖然としたような視線には気が付かないままだった…確かに四十代に近い大人のやる行為ではなかったかもしれない。
 商社マンである夫と出版社勤務の妻と聞けば誰でもバリバリの仕事人間を想像するだろう。しかしこの二人は一瞬でも気を緩めてしまえば究極のラブラブモードに突入してしまう困ったちゃんたちなのだ。結婚して早17年…手を繋いで踊り出さないだけまだましなほどの新婚さんっぷりに敵はなかった。
「あら…?」
「どうした?」
香苗さんがふいに立ち止まって指先を向けた方には、駅より徒歩十五分の場所に立てられた彼らの愛の巣があった。そこには名門私立校の氷帝学園中等部に通う一人娘が、いつものように美味しい夕食を作って待ってくれている筈なのだ。しかし…。
「家中の電気が付けっぱなしになっていない?」
「なんだと?」
 その家は洋風のモダンな建築物だったが、そこから見える窓の全てから煌々と灯りが漏れていたのだ。リビングやキッチンはもちろん、バスルーム・トイレ・二階の部屋にいたるまで…その様子はどう見ても尋常ではない。泥棒・強盗・不審者…あらゆる最悪の状況が二人の脳裏を駆けめぐる。
「一体なにがあったんだ…」
「とにかく急ぎましょう。中に静がいたとしたら大変だわ」
「ああ」
 玄関の扉を開ける事さえもどかしく、二人は転がるかのように自宅の中へと飛び込んでいった。
「静!?」
「しぃちゃん…いるの?」
父親はあたりに強く響くほどの大声を張り上げ、母親は遠慮がちに娘の名前を呼びかける。しかしなかなか反応が返ってこない。その代わりに結構な音量のテレビ番組が聞こえてくる。そのせいで彼らの声が聞こえないのかもしれない。ここまできたら直接姿を見せるしかないのか…父はここで腹を決める。
「静、大丈夫なのかッ」
「はいっ?」
 リビングの中に二人そろって突入を試みたが、そこには窓際に置かれたソファのうえでクッションや抱き枕を総動員させたバリケードを作り、その中でくまのぬいぐるみを抱き締めたまま震えている愛娘の姿だけがあった。両親が帰宅したことでよっぽど安心したのか、ぎこちなく微笑みながらとりあえずこう言った。 
「おっ、お帰りなさい」
「「…ただいま」」
 
 
 
 それぞれにシャワーを浴び終えた広瀬夫妻は、一人娘の静が用意した夕食を前にしつつビールのプルトップを持ち上げる。
「「ヒタヒタさん!?」」
家中の電気をつけっぱなしにしていた理由を知った二人は、呆然としてお互いの顔を見つめていた。
「なんだそりゃ…」
父親のなんとなく馬鹿にしたような声に、静は引きちぎれるかと思うほどに首を横に振りまくった。そして必死といった形相で捲したてる。
「だって帰り道を一人で歩いていたらついてくるんだもんっ。背後からヒタ…ヒタ…ヒタ…って…キャアアーーーーッッッ!!!」
 自分でそう言っておきながら、おそらくは脳裏にそのままの様子を思い浮かべてしまったのだろう。静は大声で叫ぶと自分で築いたクッションの山にダイビングしてしまった。そこがカタカタと小刻みに震えているのもわかる。両親はため息をついたと同時に、今年もまたこの季節がきたのだなあと実感していた。この子はとにかくこの手の話に弱いのだ。
「まーくんが悪いのよ? 夏休みの度に小さい静をお化け屋敷に強制参加させたんだから」
「カナちゃんだって和製ホラーが映画化されるたびに静を連れて映画館通っていたじゃないか…」
静の欠点(←少なくとも本人はそう思っていた)である『恐がり』については、父と母それぞれに罪がありそうだった。 
「はいはい、わかったから静も落ち着いて。でもよく学園祭の会場からうちまで無事に帰ってこれたわね。途中で大騒ぎして周り人たちに迷惑をかけたりしなかった?」
自分たちのラブラブ帰宅っぷりを棚にあげて香苗さんはクスクスと笑う。
「それは…若くんが近くまで一緒に帰ってくれたし」
「「わか…し…くん…?」」
 静がお化けに怯えて震えながら帰るのは珍しい話ではない。だがそこに男子生徒の名前が出てくるのは正真正銘初めての事だ。
「ちょっと待て、そいつ…」
「誰っ、誰、誰、誰、誰なの? その若くんってーっ」
両親の…特に母親の反応に静は驚いたものの、ぬいぐるみを強く抱き締めたまま小さく言った。
「氷帝の二年生で…テニス部の次期部長だって言われていて…でも怖い話とかが大好きで、そのことでいつも私をいじめてて…」
そこまで聞いた両親はその場でガックリと脱力する。
「あのね静、まさかヒタヒタさんの話を教えたのって…」
「わっ、若くんなんだけれどっ」
「やっぱり」
 それでも若者の手でなにかと色々な噂が飛びがちな帰り道を一緒に帰ってくれた同級生は、静にとって頼もしい存在だったのだろう。でも本当にそれだけなら自分から静を怖がらせるようなことを言うだろうか? なんてことはない…彼は静と一緒に帰りたかっただけなのだ(多少は怖がる顔を見たくもあったのだろうけれど)。恋愛の甘味も酸っぱさも経験済みの大人たちは少年の可愛い浅はかさがすぐに理解できた。しかしそれに対する感想はそれぞれ違っていて…。
(あらあら、頼もしくて可愛いナイトじゃない)
(なんだそのクソガキーッ、うちの静をたぶらかそうなんてのは百億年早いんだよ!!)
 香苗さんは頭から蒸気を吹き出しかけている雅人さんの背を叩いて宥めようとした。しかしその怒りは近くにあったクッションに噛みついても収まりそうにない。
「ちくしょーっ、俺も氷帝に行っていた頃テニス部に入ればよかった。そしたら若とかいうガキと対等に戦えたかもしれねーのに」
「パパ…じゃあなんでバスケ部に入ったの?」
「当時はバスケ部員の方がもてたんだっ」
しかしそんな単純な理由で入った氷帝学園の男子バスケ部を、中等部・高等部と六年に渡って全国に導いたことは今でも彼の自慢だった。
「でもまだ中学生の青いガキに負けるつもりはないがな」
鼻息荒い父親に、娘は自覚のないまま冷水を浴びせる発言をした。
「でも若くん、家が古武術の道場やってるよ。本人もテニスに応用するくらいの使い手だし」
「なっ…」
「これはまーくんの負けは決定ね。テニスの上に武術の使い手なんて」
 静は幼時舎の頃から氷帝に通わせていたこともあり、純粋培養的に育った根っからの箱入り娘だった。それが悪いことだと考えたことはなかったが、まさかこんな風に男の子の話をするようになるなんて…香苗さんは夢のようだと思わずにいられない。どうやら親戚一同にお見合いの伝令を出さなくても大丈夫のようだ。 
「学園祭が終わったらうちに連れて来なさいね。楽しみだわー、若くん何が好きなのかしら」
「ママ、食事なんて作れるの?」
「ちくしょっ…柔道部に入っていれば今頃はっ…」
嫉妬混じりの怒りに震える父親と、娘の恐がりが良い方向に向かったことが楽しくてたまらない母親の温度差は激しく、静はただ呆然と二人を見守るしかなかったのだ。
 
 
 
 
 八月も末日に近いとある日の夕方、残された仕事を手早く片付ける広瀬香苗さんのもとに一本の電話が入った。
「はい、広瀬ですが」
「…ママ?」
携帯電話の向こうから聞こえるのは可愛い愛娘の声である。何かがあったときに連絡をよこすのは別に珍しいことでもなかった。
「静? なにかあったの?」
「う…うん、ちょっとね…」
 そのぎこちない口調から、電話越しの静がどこか緊張気味なのがわかる。なにか隠し事をしているような…必死に言い訳を考えているような雰囲気だ。もっとも自分自身はその不自然さに気が付いてはいないだろう。元々自分の方から嘘をつけないタイプの女の子だったから。
「今日ね、仕事が少し遅くなりそうで…それで近くに住んでいる同じ運営委員の女の子が泊まっていかないかって」
「そうなの」
母親のあっさりとした答えにどうやら安心したようだ。
「あちらのお家にご迷惑をおかけしては駄目よ。あなたたちのことを信用しているから許すのであって、決して無茶なことはしないこと」
「うん、わかってる…ごめんね」
静が電話を切ろうとした時、母はからかうように笑いながらこう言った。
「静」
「なに?」
「若くんにどうぞよろしくって伝えてね」
「○☆△♯&◎∞%〜!!」
母はなんでも知っているという話だった。
 
 
 
 
END
 
 
 
 
ここまで書いて初めて気が付きました…ヒヨがどこにもいないことに(笑)。
更新日時:
2006/07/22
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12