学園祭の王子様

16      生まれたての朝   (乾貞治)
 
 
 
 
 
 七つもの中学が参加して開催される学園祭を、準備段階から一番楽しんでいたのはこの男だったかもしれない。青春学園中等部男子テニス部の頭脳こと乾貞治である。
「やあ、おはよう乾くん」
「どうも。おはようございます」
泊まり込みで会場の監視をしているガードマンさんと挨拶を交わす今の時間は午前七時。彼は始発の電車にわざわざ乗り込んでここに通っているのだ。時に会議室等の鍵を貸してくれるおじさんたちとはすでに友人同然のお付き合いとなっている。
「それにしても君も色々大変だねぇ。こんな時間に来て仕事をこなすなんて」
「でも好きでやっていることですから」
 それは若者特有の少し謙遜気味な発言だったかもしれないが、しかしそこに嘘はまったく入っていない。なんてったって喫茶店の名目で自慢の汁は予算をまったく気にせずに作り放題だわ、レシピの研究は(多数の実験台も含めて)やり放題だわ、更に他校の有能な選手のデータは取り放題だわ、しかも体が訛ってしまえば設備が整ったテニスコートも使い放題だわ…こんな生活でストレスなど溜まる筈がなかった。しかし毎日怒濤のように流れてくるデータを整理するには、自宅で徹夜を繰り返すよりも早朝の涼しい時間帯に集中して行う方がより効率的なのだという判断をし、あえてこの早朝出勤の決心をしたのだった。帰宅してからの時間は全て休息にあててしまえば早起きなど少しの苦にもならない。
「ただ今日の君は二番手だけれどね」
「えっ?」
「一番手さんは色々と持ち込んで何かをしているみたいだよ」
「大丈夫なんですか?」
「委員長の許可は得ていたからね。これから学園祭が近くなるにつれてそういう生徒も増えるんだろう」
 おじさんたちに見送られながら貞治は会場へと足を踏み入れる。
(あの人たちの露骨な機嫌の良さを考えると、その一番乗りの生徒というのは…ほぼ9割以上の確率で女の子だな)
などと意味のないことを考えながら歩いていると、香ばしい飲み物の香りが彼の鼻をくすぐってゆく。それは朝の目覚めを呼び起こすに相応しいとても豊かな苦みのある…。
「コーヒーか!?」 
今回の学園祭の中で模擬店として食べ物屋を出す学校は多いが、それでも喫茶店をテーマにした模擬店ならばある程度の数に絞られてくる。氷帝学園の場合はこことは違う場所に建物を建設していたし、聖ルドルフの場合は紅茶をメインにしていた筈だ。だとしたらコーヒーを扱う店は自分たち以外に有り得ないということになる。早朝にここに訪れ続けていた彼は今回の違和感にはっきりと気がつくことが出来た。
 自分たちの店舗で一体何が行われているのだろうか。貞治の足は無意識にそちらへと向かい、気がついた時には早足でそこに駆け込んでいた。理由が思いつかない分、その表情に焦りも浮かんでくる。
「誰かいるのか!?」
とっさに出た声も厳しく冷たい印象のものだった。
「はいっ?」
「えっ…」
ぴっくりしたような声は可愛らしい女の子のものだ。しかも彼はこのところそれを一番耳にしている。脅かすようなことをしてしまったことを後悔しても声は口に戻ってはくれない。
「静…さん?」
「おはようございます…すみません、乾先輩」
 時に日なたや影になりながら男子テニス部を支えてくれている運営委員の少女だった。その優しさから貞治が密かに想いを寄せている相手でもある。恐縮して項垂れてしまう彼女に対して慌てて首を左右に振った。
「いや、君が謝る必要はないよ。俺こそ驚かせてすまなかった。早朝から会場に美味そうな香りが漂っていたものでね、何があったのかと思ったんだ」
「そうだったんですか。驚かせてしまってすみませんでした」
おそらく話題を変えなければ彼女はずっと謝りつづけるだろう…貞治はさり気なく視線を静の手元に移動させる。
「ところで、何をしているのかな?」
「実は昨日の夕方にレンタル業者から業務用のコーヒーメーカーが届いたんです。本番まで時間もないですし、空いている時間を使って少し練習をしておこうかと」
 厨房の隅っこに備え付けられた『それ』は、確かにファーストフード店やドラマの中のオフィス内にありそうな巨大なコーヒーメーカーだった。大人数に対応出来そうな分、その扱い方も相当ややこしいに違いない。
「流石にコーヒーを煎れる練習の為に居残りの許可を得ることは出来なかったものですから」
「だから朝早くに来たわけだ」
「はい」
参加校の中で最多の模擬店を出す青学の運営委員は本当に忙しい。こうして人がくるまでの時間を使うしか方法がないのだろう。責任感の強い彼女らしい選択だと貞治は感心してしまう。もっもとそれを口にしたら「これくらいしか出来ないから…」と謙遜されてしまうに違いないが。
「それで調子はどうだい?」
「使い方はなんとか。後で紙に分かり易い説明を書いて貼っておきますね。コーヒーの量に関しては申し分ないですが、ただ当日に出すアイスとホットの割合についてはまだ微妙な感じで…」
「本番の天候にもよるだろうし、室内の温度も変わりやすいからね。一応の計算はこっちで出しておくよ」
「お願いします」
 それにしても彼がここに来るまで相当練習を繰り返したのだろう。透明なガラス容器の中には結構な量のコーヒーが注がれている。
「でも一人で飲むには多すぎやしないか」
「そうなんですけれどね。ポットに入れ換えておきますので、後で先輩たちに自由に飲んでいただこうかと…」 
「ふう…ん…」
早朝に誰も来ていない会場に入るという大冒険をやってのけたわりには相変わらずの恐縮ぶりだ。しかしその様子がとても可愛らしくて貞治の口にも笑みが浮かぶ。
「よかったらご馳走してもらえないかな」
「はい!?」
「丁度喉が乾いているところにいい香りしたものでね、すっかりその気になっているのだけれど。モーニングコーヒーの相手が俺では嫌かな?」
「そんな嫌だなんて…反対に凄く嬉しいくらいです。すぐに用意しますから、ちょっと座って待っていて下さい」
 静は自宅から持ち込んだ例の『色々と持ち込んだ』荷物をごそごそとかきまわし始める。やがて貞治の座るテーブルの前に簡単にナプキンが広げられ、白い小さなお皿に置かれた焼きっぱなしのケーキも並んだ。まるで本当に喫茶店のモーニングサービスを受けているかのようだった。
「これは…?」
きょとんとした表情の貞治を見て、静はくすっと笑う。
「サービスです。よろしかったら食べて頂けませんか」
「君の手作りだね」
「実は越前くんから相談を受けていたんです。喫茶店ならば甘いお菓子を期待して来るお客さんもいるかもしれないし、そういった人たちを追い返すのも忍びないって。だからメニューになりそうなものを一緒に考えて欲しいって頼まれて」
「越前が?」
「はい」
 あの一年生は一年生なりになんとか正常な喫茶店にしようと考えを巡らせていたようだ。もしかしたら言いだした責任を感じていたのかもしれない。しかしテニス部に関わる人間の中で相談に乗ってくれそうなのは静しかいなかったのだ。
「試しに試作品を作ってみたんです。先輩たちにも試食してもらおうと思って」
おそらくは四角いケーキの型で焼いたものを小さくカットして持ってきたのだろう。そこからは生地に混ぜ込んだ濃厚な果物の香りがしてきた。
「もしご迷惑じゃなければ…ですけれど」
自分から皿を差し出しながらも少し遠慮がちな静に向かって、貞治は小さく笑ってみせる。
「迷惑じゃないよ。是非ご賞味させてもらいたいね」
 白いシンプルな形のカップに入れられたコーヒーは香り高く、まるで本当の喫茶店にいるような気持ちにさせてくれる。一緒に添えられたケーキも自然の味が生かされた素朴で優しい味がした。元々自宅でも家事を引き受けているような女の子だと聞いてはいたけれど、まさかこれほどの腕前だったとは思っていなかった。
「驚いたな。君と結婚したら毎日こういうのが食べられるのか」
「先輩? なにか言いました?」
貞治の反応が気になったのか、厨房の向こうで片づけをしている静の声が複雑そうに聞こえてくる。使い慣れない機械で懸命に煎れたコーヒーの味は気になって当然だろう。
「いや」
彼がコーヒーカップの端に唇を寄せながら笑うと、コーヒーの上に小さな水面が広がっていった。
「楽しみだな…って言ったんだよ」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
青学の喫茶店には例の『汁』の他に紅茶とオレンジジュースしかメニューはないのです…が、何故かカフェオレの立て看板がある(笑)。せめてコーヒーくらいはあってもいいんじゃないかと思ったところに出来たネタです。
更新日時:
2006/06/17
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12