学園祭の王子様

13      ぼくらが旅に出る理由   (丸井ブン太)
 
 
 
 
 
 コトコトと音をたてて煮込まれてゆく鍋を覗き込んだかと思えば、すぐに手元の野菜をトントンと細かく刻んで行く。それからボールの中に入った食材を手早く混ぜ、別な材料もまたフライパンの中に放り込んで焦げ目がつくまで焼き上げた。いくら家事全般を得意とする静でもちょっと想像を絶するようなメニューの数である。
「肉じゃがは最後にグリンピースを散らして、炊き込みごはんは食べやすいようにおにぎりにして…サラダはツナとゆで卵で飾ればいいし、ギョーザはホットプレートで一気に焼いてしまおう。豚汁とデザートのチーズケーキは昨日のうちに作ってあるし…それから…」
 先程からそんな重労働をこなしつつ、それでも静の表情は明るくてとても楽しそうに見えた。時折鼻歌なんぞも飛び出してくるほどだ。そんな様子を黙って眺めていたのは休日を自宅でのんびりと過ごしていた父親だったが、ついに我慢できなくなったのか、可愛い一人娘にこう声をかける。
「…静」
「なーに」
「今日誰かの誕生日だったか?」
広瀬家の住人は両親と静の三人だったが、いずれも誕生日を迎える人間はいなかった。ペットのハムスター2匹を加えても同様である。なのにこのご馳走の数々…何があるのかと思わずにはいられない。
「違うよ。これはお帰りなさいパーティーの用意なの」
「お帰りなさいパーティー!?」
「うん。実はね…」
 ピンポン! ピンポン! ピンポーン!!! 静が理由を話そうとした瞬間に部屋の中を大きな音が響き渡る。広瀬家に設置されている玄関のチャイムだ。
「ちょっ!? 一体なんなんだ」
「もしかして…はーいっ、今行きます」
鳴り続けるチャイムの音をくぐり抜けるようにして静は玄関へと向かう。扉の向こうには確かに何者かの人影があった。
「ちょっと待って下さいね。今開けます」
相手が誰であるかを確認もせずに開けるのは危険な行為ではあるが、彼女は相手がこの時間に訪れることを知っていたのだろう…鍵と扉を同時に開ける。
「しっ…しず…かっ…」
 疲れ切ったような声を絞り出しながら、その人は静の腕の中に倒れ込む。暗闇の中からの登場でも、その髪は赤く輝いていた。
「ブン太先輩!? どうしたんですか、一体」
「俺、もう駄目かもしんねーわ…」
「えっ!? どうしたんですか、何があったんですか先輩!」
娘の金切り声を聞いて父親も慌ててリビングから飛び出してくる。そこには倒れてしまったブン太を抱きかかえながら座り込む静の姿があった。
「なんだ? 立海の赤毛小僧じゃないか」
「わからないの。扉を開けたら急に倒れて…どうしたんですか先輩ッ」
すると突然ブン太の腹部のあたりがグーッという情けない音を響かせる。間違いない…それは空腹の証だった。
「はら…減った。なんか喰わせて…」
 
 
 
 
 要するに、こういうことなのである…関東の代表校が合同で開催した学園祭にて参加自由のアトラクションコンテストが行われたのだが、その優勝者には『ウィンブルドン観戦ツアー』という中学生には贅沢すぎるほどの副賞が付いていた。結局それを獲得したのはブン太が所属するダンサーチームだったのだ。流石に公休の扱いにはならなかったものの、日程が決まった瞬間から彼らが有頂天にならない筈がなかった。ブン太が後輩たちにそのことを自慢しまくり、ジャッカルから英語の簡単な会話術を伝授してもらい、真田から『海外なのだからいつも以上に用心すること』という厳重注意を受け…旅立ったのは10日も前の事だった。
「なるほど、だから『お帰りなさいパーティー』だったということか」
「うん。帰国する何日か前に『出来るだけ美味い飯を山のように用意しておいてくれ』ってメールもらっていたから」
 そして帰国して真っ先にこの家を訪れた天衣無縫な天然女王様は…まさに蜂蜜の壷に頭を突っ込んだ熊のプーさん状態だった。真っ先に炊き込みご飯のおにぎりにかぶりつき、喉を詰まらせかけると豚汁を飲む。次の瞬間にはホットプレート一杯に焼かれたギョーザへと箸が伸びる。
「美味っ、美味っ、美味いっ。やっぱりこれだよな…死ぬほど喰いたかったんだよ、静の料理をさあっ」
「落ち着いて食べて下さいね。誰も先輩の分を取ったりしませんから」
そう言いながらお茶を入れている静の様子は既に『奥さん』のそれだ。父親に見せるには複雑な光景だったが、元々スポーツマンだった静の父は無邪気で自信家の少年を実の息子のように可愛がっていた。
「その様子じゃイギリス料理に相当期待して行って、見事に玉砕したみたいだな。小僧」
「うっせえよ、おっさん…」
 でも静には父の言いたいことがなんとなくわかっていた。フランスにはフランス料理があり、イタリアにはイタリア料理があり、インドにはインド料理があり、中国には中華料理がある。しかしイギリス料理というのはあまり聞いたことがない。
「なんつーかさ、出てくるもの全てに味がねーんだわ。それに酢やら塩やらを自分でぶっかけて味をつけるんだとよ。甘いものを頼めば砂糖の固まりみたいにガリガリしているしよ」
「…食べられなかったんですか?」
「菊丸はな。もったいないから俺が全部喰った」
「やっぱり」
イギリスの名物はフィッシュアンドチップスだろうが、まさかあの丸井ブン太が三食それで済ませる筈もないだろう。
「跡部も流石に申し訳ないと思ったらしくて、最終日にフランス料理店に予約を入れておいてくれたんだけどな、そっちはそっちで作法がうるさくってよー。ああこの醤油と味噌のこの素朴な味わい…うおっ、レタスが生のままでバリバリしているぞ!」
「どんな食生活だったんですか…」
 ブン太の食欲がそれなりに満たされる頃にはテーブルに用意されていたご馳走もあらかた片づいていた。デザートとして静が出してくれたのは…彼女ご自慢の真っ白なレアチーズケーキだった。それを見てどうやら彼もゆったりとした気持ちになったらしい。急にこんなことを言い始める。
「まあ、悪いことしちまったなーとは思っているんだぜ?」
「なにがですか?」
「『出来るだけ美味い飯を山のように用意しておいてくれ』っていきなりメールしちまっただろ。俺だってわかっちゃいたんだ。静にも迷惑かけちまうなーってこと」
 そんなことはないのに…静はケーキにフルーツソースをかけながら微笑んで見せた。
「日本に帰って何を食べたいってみんなと話した時にな、無性に静の手作りが食べたくて仕方なくなってやんの。本当はお袋の味を求めるもんだと思うんだけどよ。そしたら他の連中も同じ事言ってた、『やっぱり恋人のお手製が一番だな』ってさ」
その言葉は単なるお世辞というわけでもなさそうだ。食べ物を前にすると自然と嘘がつけなくなってしまうのが丸井ブン太という男である。
「でもそういう細胞クラスの状況で静のこと求めてんだなーと思ったら納得出来たけどな」
「先輩…」
「『そう言ってもらえると、沢山作って待っていたかいがあります』、だろぃ?」
 そう言って彼は悪戯っ子っぽく笑う。静が大好きな…ずっと待ちわびていた表情だ。それが嬉しい反面とても恥ずかしくもあって、全身が彼の髪の色と同じ色に染まる。
「な…いつか絶対に一緒に行こうぜ。食い物は論外だとしても、それでも見せてやりてーのを沢山チェックしてきたからさ」
「はいっ」
テーブルの双方から伸びた二人の右手が互いを強く握りしめる。その薬指にあった揃いの指輪が意味ありげにキラリと光った。
 確かに旅の思い出話は食べ物関連に対する愚痴から始まったけれど、それでもブン太の目は楽しそうにランランと輝いている。今回の旅行が本当に楽しかったことをそのまま物語っているかのようだ。そしてそれは好敵手から無二の親友になったあのダンサーたちも同様なのだろうと思う。もちろん話題がそのままテニスの試合へと移っていったならば更に興奮する姿が見られるだろうから、今は先手を取ってこんなことを言ってみた。
「梅干しと日本茶、パックのライスにお味噌汁…どうやら私たちが一緒に行くときは大量の荷物になりそうですね」
「おうっ、のりたまのふりかけも忘れるんじゃねーぞ」
 目を合わせてクスクスと笑い合う二人の話をずっと聞いていたのか、リビングの方から少し怒ったような声が聞こえてきた。
「ほーう…二人とも勝手に話を進めているようだがな、その時は当然このお父様も一緒に行くんだろうな!?」
「ゲッ…」
「なんだ、その『ゲッ』ってのは!!」
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
全国のイギリスフリークの皆様ごめんなさいっ。一応のイギリス料理の知識が欲しかったので検索してみたのですが、今では比較的美味しい料理を食べることは出来るみたいです。
ちなみにダンサーチーム(岳人・菊丸・慈郎・黒羽・天根)の面々が付き合っているのも、それぞれ学園祭で知り合ったそれぞれの静ちゃんだったりします。
更新日時:
2006/04/15
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12