学園祭の王子様

12      等身大のラブソング   (海堂薫)
 
 
 
 
 
 買ってきた牛乳パックの上の部分を開いて
 その中にもらったヨーグルトの種を大さじ一杯入れてかくはんして
 テッシュを蓋にして輪ゴムで止めて 二十四時間常温で寝かせましょう
 あっさりとした美味しいヨーグルトが出来るはずなのです
 
 
 
 
 夜も更けた広瀬家のリビングにタイマーの軽い電子音が響く。それまでエクササイズ用のバイクにまたがっていたこの家の女主人は、フーッとため息をつきながらタオルで汗を拭いた。
「流石に1時間も乗っていると体もだるくなってくるわね…って、ねえ静」
「んー?」
対面式のキッチンの向こうから一人娘ののんびりとした声が聞こえてくる。夕食も片付けもとっくの昔に終えているが、こちょこちょと何か作業をしているらしい。
「最近タオルが前よりもふわふわしているわよね。柔軟剤でも変えたの?」
「ああ…最近手洗いをするようにしているの。そしたらびっくりするくらい柔らかくなるって教わったから」
 流石にバスタオルとかは手間がかかるから避けているが、日常的に使うタオルをそのように洗うと母親でさえわかるくらい手触りが違うらしい。
「あんたらしいわね。全自動洗濯機兼乾燥機に突っ込んでおけば勝手にやってくれるでしょうに」
母はそう言って苦笑いをする。仕事の忙しさを理由に家事の全てを任せている娘に対して、常に申し訳ないという気持ちがあったせいだろう。しかし静自身はそれを少しも負担だとは感じていない。元々良かれと思ったことは日常に取り入れることが好きな女の子だったのだ。
「この前友達に持っていたタオルを貸してあげたの。それを洗って返してくれたんだけれど、びっくりするくらいふわふわでね。聞いたらお母さんが全部手で洗っているんだって」
「あら、素敵なお母さんね」
「ヨーグルトとかも手作りしているんだって。そのせいかその子もきちんとしているんだ。食事も栄養のバランスとか自分で考えながら食べているの。ジャンクフードとか食べているところ見たことないもん」
「へえー、今時の子にしては珍しいわね」
 何気ない会話をしながら母はキッチンへとやってくる。運動後の水分補給が目的だったが、そこで彼女は異様な光景を見ることになるのだった。
「静…」
「んー?」
「あんた、一体何をやっているの」
キッチンのカウンターに置かれた一本の牛乳パックをうっとりとした目で見つめていたのだ。時折切なげなため息をつきながら。
「ヨーグルト、作っているの」
「手作りの?」
「うん。その友達が家で作っているヨーグルトの種を分けてくれたの」
静は頬を薔薇色に染めて両手の指先をツンツンと弄び始める。その仕草はとても幸せそうで…まるで牛乳パックに恋をしているかのように見えた。
(まさか…)
 母親に限らず女性というものはどうしてもこういうことに目ざといものなのだろう。いや…もしかしたら『タオルの貸し借り』が話題になった時点で気がつくべきだったのかもしれない。友達が同性であるとは限らないということを。母は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら何気なくこう言った。
「うちでは美味しいヨーグルトは大歓迎だけれど、彼氏からのプレゼントにしては珍しい品物よね」
「海堂くんはそんなんじゃないもんっ。彼氏とかじゃなくって…」
「ふーん、海堂くんっていうんだ」
 母と娘はしばらく無言のまま見つめ合っていた…が、やがて静の顔は炎が放たれた時のように熱く真っ赤になる。
「ママ…もしかして謀った…?」
「さあねー、なんのことかしらねー」
「きゃああーーーーっっっ!!!」
大げさな身振り手振りで必死にごまかそうとすればするほど母親の口元がニヤニヤと歪んでゆくのがわかる。
「そうかそうか。静もお年頃になったのねー。それでどんな男の子なの? 優しい子? ハンサムな子? それとも頭のいい子なのかしら?」
「テニス部に所属していて、全国に行っちゃうほど凄いプレイヤーで、練習熱心な努力家でね…って違うの! 彼氏とかそんなんじゃないのっ!」
「あんたって本当に誘導尋問に弱いタイプよね…」
 まったくもって青春よねぇーと言いながら、母はミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫に戻して今度はシャワーを浴びに浴室へと向かう。もうここまできたら彼女の考えから逃れることは出来そうにない。静は自分の単純なおつむを呪うしかなさそうだ。それでも楽しそうな母の背後に向かってこう言うのは忘れなかった。
「お願い、パパには内緒にしてくれる…?」
「はいはい」
 
 
 
 
 ギラギラとした日射しが会場全体に容赦なく降り注いでくる。体力には人並み以上の自信はあったものの、金魚すくいの模擬店を組み立てるにはあまりにも非情な条件である。
「このまま作業を続けたら体力消耗しちゃうなあ。少し休んだ方がいいかもしれないね」
「そうっスね…」
海堂薫もまたある程度の時間を過ぎると水分補給と休息の為に食堂へと避難を開始した。
「ふうっ…」
頭を被っていたバンダナをほどいて流れ落ちる汗を拭う。この様子では帰りまでに何枚のバンダナを汗で汚してしまうだろうか。まあ彼の母親は別にこれくらいのことで文句を言う性質ではなかったが。
 そのまま足を売店の方に向けて、そこでスポーツドリンクを購入する。一息つこうと椅子に座ったと同時にどこからかバタバタと走ってくる音が聞こえてきた。
「あっ、いたいた…海堂くん」
自分を呼ぶ声に海堂は慌てて振り返る。そこには学園祭の運営委員である広瀬静が息を弾ませながら立っている。もしかしたら金魚すくいの場所まで出向いて彼のことを探していたのかもしれない。
「お前…」
「ごめんね、今忙しいかな」
「いや、そんなことはねぇけど」
 彼女とこうして話をするたびに海堂は『変わった奴だ』と思わずにはいられなかった。自分の顔だけを見て逃げ出す女子生徒も多いというのに、静は初対面の時からからそういった行動は一切見せない。今ではこうして話をしているだけで和んでしまうほど、彼女の存在は海堂の心の大きな位置を占めるようになってきていた。
「実は受け取ってほしいものがあって」
「受け取ってほしいもの?」
「うん。これなんだけれどね」
 恥ずかしそうに微笑みながら差し出したのは両手で軽く抱えられる程度の大きさの白い箱だった。
「海堂くんって甘いものは平気な人?」
「好き嫌いはねぇけど」
「よかった…ほらこの前ヨーグルトの種を分けてくれたでしょ? それを使ってケーキを焼いてみたの」
ヨーグルトを使ってケーキを焼いた!? そんなものは自分の母親ですら使ったことのない荒技だ。ふと好奇心にかられた海堂は箱の蓋を無言のままそっと開けてみる。そこには丸い普通のケーキ型で作られたらしい焼きっぱなしのケーキがレースペーパーの上でお行儀良く座っている。
「これお前が作ったのか…?」
一見おっとりしていて不器用そうに見えるのに、お菓子づくりの腕前はなかなかのもののようだ。実際金魚すくいに失敗してしまった子供たちへのサービスとして魚の形のクッキーを焼いてくるのだと人づてに聞いていたことを思い出す。
「うん。荷物になって申し訳ないんだけれど、もしよかったら家族のみなさんと一緒に食べてもらえないかな。そして海堂くんのお母さんにもお礼を言っていたって伝えてね」
「ああ…わかった」
「それじゃあね、足止めさせてごめんねっ」
「おいっ…」
 礼を言うつもりで慌てて呼び止めようと手を前方に伸ばしたものの、それは結局宙ぶらりんのままになった。海堂は走り去る静の背中と手元の箱を交互に見つめる。早口で言いたいことを言われた感じだが、これは先日のヨーグルトのお礼だと思って間違いない。静自身はこれに例のヨーグルトを使ったと言っていたが、どちらかといえば洋酒がきいた大人っぽいケーキのようだ。もちろん今の季節には新鮮な果物や生クリームを使ったものよりはずっと気が利いていると思う。その甘い香りに誘われて喉がゴクッと鳴り、それなりに満たされていたはずの腹の虫もグイッと音をたてそうになった。
 しかしここは学園祭の会場である。七つもの学校の生徒が比較的自由に出入りを許されている場所なのだ。それらを微笑ましく見守っていた者も多く、そして二人のことをよく知る人間もその中にはいた。海堂の言うところの『油断ならない人間その1』だ。
「みぃーちゃった、みーちゃった」
「もっ桃城!?」
「広瀬からの差し入れかぁ? てめーばっかずるいぞマムシー。俺にも分けろ…ってあれぇぇぇぇーーー!!?」
海堂は無言のまま腕を振り上げて強力なアッパーカットをくらわす。すると桃城の体は施設のはるか上空に吹っ飛んでいってしまった。人の恋路を邪魔してしまえばこうなるという見本である。
「ったく、油断も隙もねぇ…ってうわあああーーーっっ!!!?」
「これは実に美味しそうだ。どうやらヨーグルトは味よりもケーキ全体をしっとりさせる役割を担っているようだな。ラム酒につけたドライフルーツが甘味を引き立てているから、おそらくは砂糖も大量には使っていないだろう。バターと砂糖を控えるだけでカロリーも随分と押さえられている。手作りならではの利点だな」
 海堂を無視して箱を覗き込んでいるのは『油断ならない人間その2』であった。相変わらずの逆光眼鏡を指先で持ち上げながらケーキの中身を観察している。はたしてそれに意味があるのかと言えば…おそらくはこれにつきると思われるのだが。
「…乾先輩」
「なんだ、海堂」
「解説してくれるのはありがたいんスけど、分けませんから」
「…ケチ」
 
 
 
 
END
 
 
 
 
ヨーグルトのレシピはカスピ海ヨーグルトと同一のもの。我が家でも作っています。
更新日時:
2006/03/30
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12