学園祭の王子様

10      FACE   (乾貞治)
 
 
 
 
 
 ああ、彼女のことかい?
 そうだね…仕事熱心で責任感が強い。
 しかも相当機転をきかせることが出来る人間だ。
 彼女の助言とその説得力には随分助けられているよ。
 出会う時期がもう少し早ければマネージャーとしてスカウト出来たかもしれないね。
 そうだな…ただ唯一の欠点として挙げる事があるとするなら
 実は結構な慌て者というのはあるかもしれないな。
 よく観察していると大抵誰かにぶつかっているようだ。
 真面目な性格をしているから、一つの役割を与えられると他が見えなくなるんだろう。 
 今は微笑ましい学園祭の風物詩として許されるかもしれないが
 車の運転免許を取る年頃までにはなんとかした方がいいだろうな…とだけ言っておくよ。
 
 ーもっとも 俺は彼女のそんなところも気に入っているんだけれどねー
 
 
 
 
 
 二週間という準備期間は案外余裕があるのかもしれないと思っていたが、実際に取り組んでみるとやることの山積みであり、運営委員である静にとっても猫の手も借りたい心境の毎日だった。改めて学校を舞台に行われる文化祭や体育祭というのは教師たちの手に助けられているものだと思い知ってしまう。しかしそれも後半戦にさしかかってくると各校の模擬店も良い感じに整い、忙しさの中にも随分と浮かれる気持ちが先立つようになってきた。
「凄いなあ…各校の個性が充分に生かされていて、パッと見ただけでどこの模擬店かわかっちゃう」
同じ喫茶店という名前の模擬店を選んでいたとしても、青学と氷帝と聖ルドルフでは店の外観も雰囲気もメニューもまったく違っていた。存分な華やかさを備えた氷帝、そしてフランスのカフェを意識したらしい上品なルドルフ…彼らと対抗するために青学が選んだのは人の目を一瞬で奪うであろうメニューの数々だ。確かにそれは自分たちで決めた事だったけれど、やはりそのギャップには笑わずにいられない。
「でも学園祭は『楽しんでなんぼ』だもんね。こういう模擬店があったって良いか」
 しかしそれを実際に運営するためにはまだまだ準備が必要だ。喫茶店の内装の準備に、店を彩る為のあらゆる小物の手配、更に宣伝の方法やチャレンジメニュー以外のメニューの作成…青学男子テニス部の重要な片腕として彼女は今日も会場中を駆けめぐっている。
「季節柄冷たい飲み物は絶対に外せないけれども、それもジュースや紅茶だけじゃ絶対に足りない…あとは室内の温度によっては温かい飲み物が必要になるかも。あとは不二先輩の激辛メニューに耐えられなかった人たちの為に甘いお菓子も用意した方が良いし…」
自分の頭の中を整理するつもりで、静はわざとそれらのことを口に出しながら歩いていた。
「それから、小さな子供のお客さまの為にゼリーとかプリンとかアイスとか…わぷっ!!」
 考え事をしていると、どうしても前方がおろそかになってしまう。気がついた時には静はすれ違おうとしていた人に思いっきり体当たりをしていた。しかもそれは相当な衝撃であったらしく、彼女の小柄な体は地面に叩きつけられてしまう。
「キャッ…」
「大丈夫かい? すまない…つい考え事をしていたもので」
相手はどうやら大柄な男子生徒であるようだ。静と違って体はびくともせず、すぐに手を差し伸べてくれた。
「いいえ、私の方こそすみませんでした。つい慌てちゃって」
静はその手に手伝ってもらいながら立ち上がり、ぶつかってしまった相手に向かって素直に頭を下げた。
「あっ…」
 手を握りあった二人はここで初めて互いを見た。しかし静はここから『ありがとう』も『ごめんなさい』も言えぬまま絶句してしまう。整えられた眉、切れ長の二重瞼、そして思慮深い光を宿した瞳…その人は思わず言葉を失ってしまうほどハンサムな人だったからだ。
「あのっ、あの私…」
バクバクと音をたてる心臓に邪魔されて言葉が上手に出てこない。しかし相手は一体どうなっているのかわからないように首を傾げていた。
「怪我はないかい?」
「あっ、はいっ。おかげさまで怪我なんてまったくないです…」
ぺこぺこと続けざまに頭を下げる姿を見て、相手が自分のことを小さく笑っていることに気がついた。
「ごめんなさいっ、失礼します」
「あっ…」
呼び止めようとする声を振り切るようにして静はその場を勢いよく立ち去ってしまった。
「まいったな…」
 カッと熱くなった体を抱き締めるようにして静はまた走り始めていた。もしかしたらまた誰かとぶつかるかもしれない…という発想はすでに飛んでしまっている。彼女の頭の中を支配していたのは、まるで運命の王子様であるかのような出会いをした彼のことだ。
(でも…本当に素敵な人だったなあ)
自分のドジ具合を反省しながらも、それでもほんの少し幸せな気持ちも味わっている。ただあの顔を青学内で見かけた記憶はなかった。
(同じタイプの制服なら、不動峰か六角中の人かな…だったらもう会えないかも。ちょっと残念。せめて名前でも聞いておけばよかったかな)
あのような状況下ではとてもそんなことは出来ないくせに、それでも色々と想像しながらフフッと楽しそうに笑うのだった。
 
 
 
 
 
 静がその『彼』と再会するのは、時期としては比較的早いものだったかもしれない。喫茶店のメニューの打ち合わせの為に模擬店のスペースに出向いた時の事である。
「失礼しまーす」
少し早めに一番に訪れたと思っていたが(つい挨拶をしてしまうのは彼女の癖だ)、すでに配置を終えたテーブルの一角に一人の男子生徒の姿があった。
「乾先輩!」
「やあ、君か」
一才年上の先輩がそこでパソコンを開いていたのだ。テニスの試合以外で他校の部員と関われる数少ない機会ということで、データマンの彼がこうして情報の整理をしているところをよく見かける。
「すみません、遅くなって」
「早いくらいだよ。あとの二人はまだ来る気配も見せていない」
彼と一緒に喫茶店を担当する二人の男子生徒のことを思い出すと、静の口元にも自然と笑顔が零れてきた。テニスに関しては天才的なものを持ってはいるものの、彼女が知っているのは少し変わった少年としての部分だったからだ。もっとも変わっているということに関しては目の前にいる乾貞治が最たるものだとは思うけれど。
 それでも静はこの先輩と過ごす時間が好きだった。全ての物事をデータに置き換えるという部分は恐れられているようだが、それとは反対にとても柔軟な感性を持っている。どれだけデータを取られていてもどこか憎めない部分もあった。
「そういえばさっきのことだけれども」
「はい?」
こっそりとパソコンの画面を覗き込もうとした時に話し掛けられて、慌てて頭を上げる。
「随分激しくぶつかっていたからね。本当に怪我はなかったかい?」
初めは彼が一体何を言っているのかがわからなかった。しかし激しくぶつかるという言葉で静は我に返る。
「やだっ、先輩あれを見ていたんですか?」
「えっ?」
「考え事していたら相手の人に激しくぶつかっちゃって。恥ずかしいですよね」
頬を少しだけ薔薇色に染めながら肩をすくめて見せる。
(まさか…気がついていないのか?)
 貞治は黙って静を見ていたが、その胸の中には絶えず一つの考えがくすぶっている。もしかしたら…という予感はあったものの、まさかそれを実際に見せつけられるとは思わなかった。
「乾先輩?」
「なんでもないよ。ところで君はぶつかった相手の男性がどんな顔だったか覚えているかな」
「えっと、覚えていますけれど…」
「そうか」
もしかしたら目の前にいる先輩ならばあの人のことを知っているかもしれない…静は一瞬だけそんな期待を寄せていたのだが、あらゆる人間に精通していそうな貞治でさえ名前が出てこないということは、彼は静の中でも本当に謎の人で終わってしまいそうだ。
「そのぶつかった男子生徒のことなんだけれどね」
「はい」
貞治の長くて太い指先がゆっくりと自身の顔へと近づいてゆく。そして目を被っていた二枚のガラスをそっと取り去ってしまった。これまで静がどんなに望んでも行おうとはしなかったのに。
「…こんな顔、していなかったかな」
「えっ…」
 おそらくは他のテニス部員でさえ彼が素顔をさらした姿を見たことはないだろう。静はそれが不思議でならなかったのだが、それでも眼鏡は貞治の一部だと思えば気は済んでいた。なのに…。
「先輩だったんですか、あのぶつかった背の高い男の人」
突然の出来事に静の体は完全に固まっている。
「まあね」
「全部知っていて、わざとそんなことしたんですか…?」
「でもまさか君が俺のことにまったく気がつけずにいたとは思わなかったからね。背丈とか髪型とか、俺だと知り得る要素はいくらでもあったはずだし。あの時はぶつかった衝撃で眼鏡を落としてはいたものの、俺は胸に飛び込んできた女の子が君だとすぐにわかったよ」
「うっ…」
 確かに当時の状況をパズルのように当てはめてゆけば、相手が貞治以外の人間であることが想像がつかない。しかしそれ以上に彼の顔のインパクトは強すぎた。それに捕らわれているうちに他が見えなくなってしまったのだ。本人の目の前ではしゃいでしまった自分が恥ずかしくてたまらなくなる。
「結構、傷ついたかもしれないな」
貞治は眼鏡を手にしながら大げさにため息をついてみせる。そして静の言葉を非難するかのように、彼女に向かって一歩一歩ゆっくりと歩みを進めていった。
「ごっ、ごめんなさいっ」
詫びの言葉を口にしながらも、静の足は彼とは逆に一歩一歩後退してしまう。それらの繰り返しの末に静の背はついに喫茶店の壁まで追いつめられてしまった。
「あのっ」
 そんなことを言っているうちに貞治はギリギリまで近寄って立ちふさがると、両腕を彼女の顔の横に伸ばして完全に退路を絶ってしまう。
「それで? どうだったかな」
「はいっ?」
「随分見たがっていたよね、俺の顔」
この状況で感想を言えというのか、この人は。顔を真っ赤に染めてカタカタと震えていながらも、一目惚れしてしまった顔からは目をそらせずにいる自分に対して…それはもうすでに返事を述べているのと同じ意味合いがあった。
「知らなかったよ」
貞治は満足げに笑うと、耳元ギリギリまで近づいてそう囁いた。その様子は恋人からの口付けを待っている少女のような形をしていた。
「君の好みのタイプが俺の顔だったなんてね」
甘い声で綴られる言葉は電流へと姿を変えて、小さな彼女の体を震わせてしまう。それなのに彼の顔から目をそらすことは出来なかった。まるでようやっと会えたかのような不思議な感覚を覚えてしまう。
「ごめんなさい…」
 涙が混ざったような小さな声が聞こえてくる。追いつめられた女の子は最早それしか出来なくなっていた。ましてや耳をくすぐるのが、自分が素敵だと思った人の口から出てくるひどく甘い声だったとしたら。
「…静さん?」
「もうしないから…お願い、許して下さい」
その言葉が引き金になったかのように、貞治はゆっくりと静から体を離してゆく。気がついた時には例の分厚い眼鏡も彼の顔に戻っていた。
「また君のデータを更新しておくことになりそうだね」
「あっ…」
 すでに二人を取り巻く空気はいつものような感じに戻っていた。あの激しく衝突したことも、壁際まで追いつめられて意地悪なささやきを受けたことも嘘のように思えてしまう。恥ずかしさと悲しみが入り交じったかのような気持ちを抱えた静は、もうこの場所にいるのも辛い感じになっていた。
「静さん?」
「わっ私、忘れ物してしまったみたいで…ちょっと取りに行ってきます」
 慌てて喫茶店から出てゆく静の後ろ姿を見送りながら、それでも貞治はククッと笑わずにはいられなかった。こんなに都合良く忘れ物を思い出す筈がない。おそらくは自分のもっとも向かう場所…この建物ならば運営委員が集う会議室で頭を冷やしているだろう。特に今の時間は運営委員もあちこちで動いているから一人で冷静になることが出来る。
「今頃は自己嫌悪に陥っているかもしれないな…可哀相なことをした」
言葉ではそう言っていても説得力は皆無だ。顔を真っ赤にして何も言えなくなっていた静をいじめて楽しんでいたのは事実だろう。しかし貞治はまだ気がついていない。静の胸に眠り続けていた『憧れ』や『尊敬』といった感情が、素顔をさらしてしまったことによって奇妙な変化を見せていることを…彼のちょっとした悪戯心が少女の胸に芽生えた柔らかな想いを強制的に自覚させてしまっていることを。
(私って…結局乾先輩の外見だけを見て好きになったわけじゃないのに…)
そんな懺悔に似た言葉を聞かされるのは、これから二人の間に相当な時間が流れてからの話だ。
 しかしだからといって貞治が今回のことについて罪悪感を抱いていないわけではなかった。もしあの時静が泣きそうな感じの声を出さなかったなら…あの一瞬が彼の理性を引き戻したのだ。それがなければ自分は静にどのようなことをしたのだろうか…まるで何かに責められるかのように、密着した時の彼女の甘い香りまでが蘇ってきてしまう。
(まいったな…自己嫌悪に陥っているのは俺の方だ)
深いため息をつきながら眼鏡を外し、熱を持ってしまったこめかみのあたりを何度も擦ってみる。どうやら眠れない夜を過ごしてしまいそうなのは、彼女だけではないようだった。
 
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
こんなイベントが欲しかったのです…ええ、欲しかったですとも。
更新日時:
2006/02/26
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質問の提供は『広瀬静LOVE同盟』様でした。
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Last updated: 2010/5/12