3RD STORY

1      愛唄      ×桜井琥一
 
 
 
 
 
 土色に濁ったような荒々しい冬の海はなりをひそめ、新しい季節の訪れとともに波も穏やかに浜辺を行き交うようになった。はばたき学園の卒業式の後、あの教会から直接West Beachにやってきた凪沙は、琥一から思いがけないことを聞かされる。
「ここが…なくなってしまうの?」
「ああ」
その短い言葉に一体どのくらいの想いが込められているのだろうか。それがわかるからこそ、凪沙は何も言えなくなってしまう。彼女は口をへの字に結び、必死の形相で溢れそうな涙を堪えていた。
「寂しくなってしまうね…」
「そうだな」
 他人にとっては壊れかけたダイナーなのだろうが、ここは兄弟が三年もの間肩を寄せ合って生きてきた大切な家だった。その隅々に彼らが残した青春時代の光と影が残されているような気がする。しかし建物自体の管理は大人の手で行われており、自分等の知らないところで全てが決められると理解してもいたのだ。遅かれ早かれその時が来るだろうということも…それを知らされたのが卒業という節目の日だったことに、運命的な何かを感じずにはいられない。
「琉夏くんはこのこと…」
「親父から知らされた後に、俺から知らせた」
「そう…」
 凪沙に打ち明けたことでホッとしたのだろうか。琥一の横顔は不思議と安らいでいるように見えた。知らされてからの僅かな期間で心の整理がついたのかもしれない。しかしその様子が凪沙の心に波風をたてる。
「琥一くんは」
「ん?」
「これから…どうするつもりなの?」
 聞きたくてもずっと聞けずにここまで来てしまった。彼ら兄弟が自分のように大学進学の準備をしたり、就職試験を受けた様子も見たことがない。三年間バイトをしていたスタリオン石油なら引き続き働くことを許してくれそうだが…。
「ここにはギリギリまで住むつもりでいる。色々と整理するモンもあるしな。それが終わったら一度は家に帰ることになんだろ」
 …意外な言葉だった。同じことを言われた桜井の両親も驚いたと思う。でも責任感の強い彼は、自分が長男として家を継ぐことをずっと考えていたのだろう。
「びっくりしたか?」
「少しね。でも琥一くんらしい…きっとおじさんとおばさんも喜んでいると思うよ」
「どうだろうな。これまで散々好き勝手してきた分、今更だって思っているかもしんねぇぞ」
「だって大切な長男が色々な経験をして、世間を知って…一段と逞しくなって帰って来るんだもの。嬉しくない筈がないよ」
 バカ…の一言と共に凪沙の頭が琥一の手に包まれる。それは以前と変わらぬ優しさに満ちていたが、それでも今までと違う意味があることを彼女は知っていた。自分の胸を打つ高鳴りも、優しかった幼なじみに対するものではなく、愛する人に捧げられているものだ。
「少しずつ仕事を覚えて、資格も取って…必要なら大学に行くことも考えているが、まあ随分と遠回りな話だな。胸張って社会人だって言えるようになるのはいつになんのやら」
 それでも一歩一歩確実に前へ進もうとする姿が彼らしい。たとえどれだけ遠回りをしたとしても、この人についてゆきたいと凪沙は思った。
「なあ、凪沙」
「…は、はいっ?」
急に声をかけられたことで飛び上がるように反応した様子を見て、琥一は苦笑する。
「一度は実家に帰るが、落ち着いたらまた別に部屋を借りるつもりでいる」
「えっ…」
「そんなに意外でもねぇだろ。まあ仕事のことを考えりゃ実家にいた方が便利だろうがな。でも好き勝手を三年もやってきたんだ…その感覚が染み込んじまってるよ。今更戻れるわけがねぇ」
 社会人を名乗るつもりなら、最早好きな時間に食べて眠る生活は送れなくなるだろう。でも好きなように部屋を飾り付けていた琥一が実家の一室に満足しないのも容易に想像がつく。しかしその一言がなんとなく言い訳じみているようにも聞こえ、凪沙は首を横に傾けながら黙って聞いていた。
「それで…だ」
「何?」
「お前さえよければ、なんだけどよ」
琥一はフーッと息をつくと、わずかに声を振るわせてこう言った。
「…俺と一緒に暮らさないか」
 頬を盛大に赤らめながら、それでもその目は真剣さ故に眩しく輝いている。凪沙はその言葉に心臓を捕まれるような衝撃を覚え、目から自然と涙が溢れてきた。
「琥一…く…」
「おいっ、俺は別に泣かせるつもりはねぇぞ!?」
慌てて肩をつかむ琥一に、凪沙は首を横に振る。それと同時に涙が左右にちぎれた。
「違うの。私…私…嬉しくて」
 教会で告白を受けた時から、いつかはこのようなことを言われたいと思っていた。しかしまさかこんなに早くその瞬間が訪れるとは…自分を見つめる琥一のまなざしが、あの時自分を必死に引き留めようとした男の子のそれと重なる。凪沙はたまらない気持ちを抱えたまま、彼の腕の中に飛び込んだ。
「おっ、おい…」
「わっ…いま…るっっ」
「はあ!?」
思わず反射的に抱きしめてしまった凪沙が、潤んだ黒い瞳をまっすぐに自分へと向けている。
「私、今すぐここに来る! 家に帰って着替えだけまとめて。大きい荷物は後になっちゃうけど…」
「ちょっ、お前本気で言ってるのか?」
 琥一は完全に自分の言ったことを棚上げしている。脱力のあまり、腕の中に凪沙がいなければその場に座り込んでいたかもしれない。
「お前…自分で何を言ってるのかわかってんのかよ…」
「わかってる。自分がどれだけ我が儘で無茶を言っているのかも…でももう離れたくないもん。ずっと琥一くんのそばにいたいもん」
ふいに琥一の抱きしめる力が強くなった。凪沙もそれを素直に受け入れて身を任せる。
「ったく…一応控えめに言ったつもりが、お前の方から攻められたら意味ねぇだろが」
「ごめん…でも…」
「まあお前のとこのおじさんに何発かぷん殴られることだけ覚悟しとくわ」
 怒られても仕方のないことだと思った。しかし彼の胸は上下にふるふると揺れている。ククッと笑っているのだ。
「琥一く…」
「今更取り消すなんて言うなよ? 俺らが住む初めての家がいつブッ壊されるのかわからねぇボロいとこだってのも含めてな」
何度も大きな手のひらで髪を撫でられるのを感じると、胸にまた甘い気持ちがこみ上げてくる。ただひたすらに彼の言葉に頷くことしか出来ずにいたが、今はそれで充分な気がした。
 
 
 
 
END
更新日時:
2010/09/19
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Last updated: 2011/5/25