365 TITLE

        
48      約束の地   (立海三強&切原赤也)
 
 
 
 
 
 病院の廊下を漂う消毒液の臭いは、そこを歩く人間の気持ちをもれなく不快で頼りないような複雑な気持ちにさせてくれる。それは健康な肉体を持つ少年ならば尚更だろう。しかし今の彼はそれを拒否することは出来ない。自分の前を歩く二つの大きな背中を一歩引いた位置から追いかける。
(幸村部長…)
自分が所属する男子テニス部の頂点に立つ男の顔を思い浮かべながら、切原赤也は唇を強く噛みしめる。本来なら今日も彼を中心として練習は繰り返され、やがては全国3連覇は容易く達成される筈だったのだ。しかし彼を襲った正体不明の病魔は全ての運命を狂わせてしまった。その微妙な空気の変化は他の部員たちの気持ちにも大きく影響を与えている。中には部長の代わりに自分が倒れればよかったと言い出す者もいて、部の中の幸村精市という存在が大きく太い柱だったことを改めて認識させていた。
 放課後に部室へと向かおうとしていた赤也を、わざわざ教室まで迎えに来たのは柳蓮二であった。めったに一年の教室には訪れない男にクラスメートも露骨に驚いた。
「今日の放課後はあいているか」
彼がこれから部活に出ようとしていることを承知でそう聞いてくる。部でも一切の隙を見せぬデータ主義者で通っているだけに、最初に現実をふまえた上でなければ行動しない性質なのだろう。
「あいているっつーか…部活に行く以外にないっスよ?」
赤也はこの不可思議な雰囲気を醸し出す男のことを嫌ってはいなかった。もちろん倒すべき宿敵の一人ではあるが、彼が与えてくれる情報が自分を少しずつ成長させてくれることがわかる。今では散々毒づいたことも忘れ、尊敬する先輩として親愛の情を抱くまでになった。
「ならば話は早いな。これからお前に付き合ってもらいたいところがある」
「付き合ってもらいたいところ?」
「精市のいる病院だ。校門で弦一郎も待っている」
 慌てて窓の向こうにある校門に視線を移す。そこにはすでにあの帽子を被った男が立っているのが見えた。
「なんで…」
「精市がどうしてもお前に話したいことがあると言っている」
そしてそれは自分の他に2人の親友にも立ち会ってもらいたいと思うほどの重要な事なのだろう。
「異存はないな?」
「はい」
 そういう経緯があって、今3人はこうして病院の廊下を歩いている。しかし赤也の心中は複雑だった。これまで同じ部の仲間と何度か見舞いに訪れたことはあったが、それでも白い病室の中で束縛されている彼の姿を見るのは辛かったのだ。
「幸村…いるか? 来たぞ」
先頭に立っていた真田が病室の扉をノックする。
「どうぞ。待っていたよ」
向こうから穏やかで優しい声が聞こえる。一瞬で彼がまだ元気だった頃に引き戻されそうになった。扉を真田が開け、柳はその後ろから入ってゆくように赤也を促す。
「突然呼び出したりしてすまなかったね、赤也…それに真田と蓮二も」
「部長…」
 赤也はそれ以上の言葉を完全に失っていた。そして改めてベッドから身を起こそうとする彼を見ると胸がつまるような気がしてくる。これがあの立海大附属の幸村なのか? コートの上を雄々しく駆けめぐった男のこれが今の姿だというのか。まるで女性と見まごうほどの儚さで…。それと同時に脳裏に浮かぶのは最悪の状況だった。もし自分がこの立場だったなら…全てを取り上げられたのがもし自分だったなら!
「赤也?」
「すみません…」
「お前が気にすることは何もないよ。この入院だって検査の為なんだし、それが長引いているだけだから」
まるで自分の心を見透かされたような言葉に赤也はただ無言を通すしかなかった。
 それまで赤也の側にいた2人も、幸村を挟んだ向側へと移動している。まるでこれから語られる話が3人の共通した意見なのだと思わせるかのように。
「検査が終われば一時は退院することになる。それからは投薬と…場合によって手術が必要になるかもしれないが」
本人はある程度の見通しがついたことでスッキリした気持ちになっているのかもしれない。しかしテニス部を気にしていない筈はなかった。実際ここに顧問を呼んで自分が不在時の穴を埋めるための選手を検討したこともあったのだ。
「俺がいなくても全国への予選は開始される。立海だけがそれを回避するというわけにはいかない。俺が不在の間に入るレギュラーについてはこの2人とも何度も話し合ったんだ」
赤也はその先に出てくる言葉をなんとなくだが悟っていた。しかし自分にとってそれはあまりにも大きな出来事であり、なんとなく現実味に欠ける。しかし緊張感故に体はブルブルと上下に震えた。
「俺は、赤也…お前をレギュラーに上げたいと思っている」
 レギュラーの候補に上げられていたのは自分だけではない。それこそその座を渇望し、日々の練習に耐えた二年生の部員は山のように存在している。その者たちの気持ちを考えると…いや、それは単なる言い訳に過ぎないのだろう。ここでレギュラーメンバーに選ばれるということは、幸村精市と同等の力を要求されるということだ。すでに中学テニス界には同等の敵さえいないと言われるこの男の。
「俺は…」
その反応が真田にとって意外に見えたようだ。彼にとっての赤也は自信家で生意気な性格の主として強く印象づけられている。幸村の代理は自分しかいないと、簡単に引き受けると考えていた。反対に柳はこういう反応も予想の範囲に入っていた。それは幸村への尊敬の念と立海大附属中学の愛着から由来される想いからだ。
「引き受けてくれるね」
 その言葉にどう反応したら良いのだろう。わかりましたと明るく引き受けるのも、だからといって断るのも間違っているような気がする。少なくとも彼の不幸を望んだ形にはしたくなかった。
「俺は…俺…は…」
何かが自分の手を握りしめた感触で我に返る。ベッドから伸びたそれは幸村のものだった。
「お前の気持ちはわかっているよ」
「えっ?」
「俺の病気が理由になってしまうのが辛いんだろう? 入部したばかりの頃からお前は実力で俺達を倒すと言い切っていたからな」
当時のことを思い出したのか、彼の顔を覗き込んでクスクスと笑う。
「しかしだからこそ引き受けてもらわなくてはならない。もしこの病気がなかったとしても、俺は必ずお前を上にあげたからだ」
 赤也はそれまで俯いたまま病室の床を見ていたが、ここで3人の顔を交互に見つめた。真田も柳もこの意見には異存はないようだ。
「部員の中でもお前の力はずば抜けている。のちに間違いなく立海を…いや、日本のテニスを支える人材であると皆が思っている筈だ。誰よりも早く全国の舞台に立たせてみたいと俺も思っていた。だからこれは間違いなくお前が実力で勝ち取ったレギュラーの座だ。これは他の誰にも文句は言わせない。それがたとえお前自身だったとしてもだ」
幸村の手を握る力が強くなった。それはまるでテニスラケットを握っている時のように。
「もう一度言うよ。切原赤也…この話を引き受けてくれるな?」
「はい!」
幸村はそのはっきりとした強い意志のある声を聞いて安堵の表情を浮かべる。しかしその奥にどこか悲しげな部分があったのもまた嘘ではないのだった。
 
 
 
 
 病院から外に出ると冷たい冬の風が彼等の鍛えられた肉体を打ち付けてゆく。そんな中、赤也は何度も拳を握りしめていた。この中に強い力が宿っているように感じられる。2人の部員の間に確かなエールの交換がなされたのだ。お互いの力と…そして全国への想いも。
(部長…俺は…)
「赤也」
前を歩く先輩の一人が、振り返らぬまま突然声をかけてきた。
「はっ、はい」
「幸村はお前のことを随分と信用しているようだが…俺はお前があの男の代わりを務めるのは早すぎると思っている。技術面だけではなく精神面においてもお前はまだまだ未熟な存在だ」
随分なことを言ってくれるものだと思うが、それでも唇を噛みしめて聞き入るしかない。この2人は自分にとっていつかは越えなくてはならないと感じながらも、それでも高い壁であることに変わりはないからだ。
「お前にはまだ教えねばならぬことが山のようにある…行くぞ」
「はいっ」
3人はおそらく自分らを病室から見送っているであろう男を振り返ることなく、そのまま学校に向かって歩き始める。しかしその背中には彼等にしかわからない確かなメッセージが刻まれていた。
(あんたがいなくても、立海を中学テニス界の最高の場所に。俺があんたの代わりになって)
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
舞台は部長が入院した二年(赤也のみ一年)の冬頃だと思って下さい。赤也が試合時間の記録にこだわる理由はここにあるのかもしれないとちょっと夢を見たり。
 
 
 
 
イメージソング   『約束の丘』   福山雅治
更新日時:
2005/04/28
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Last updated: 2010/5/14