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95      プリズム   (樹×深鈴 硝子の森)
 
 
 
 
 
 暦の上では夏も終わりを知らせる頃だというのに、まだ日中の気温も高く、照りつける日差しも強い。それでも吹き込んでくる爽やかな風は確実に次の季節の到来を告げているようだった。8月の最終日…小さな田舎町の中央に建つ古い木造の駅舎に、東京への列車を待つ2人の影が訪れる。
「…おや?」
ここで売店を営んでいる初老の婦人が2人に声をかけた。
「あんた、白撫子荘のお嬢さんじゃないかい?」
婦人の言葉こそ乱暴に聞こえたが、その声の響きには相手に対する親しみが感じられる。
「ええ」
 茶色の短い髪を風に踊らせて彼女は振り返る。その口にはやはり相手に対して警戒のない穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「もう夏休みも終わりますから…本当にお世話になりました」
深々と頭を下げる彼女に、婦人は恥ずかしさを隠すかのように大声で笑う。
「何言ってるの! こんな何もない田舎だけど、また遊びにおいで」
「はいっ」
若い2人はその言葉が嬉しかったのか、互いに見つめ合い微笑み会う。
「でもそこのお兄ちゃんは見かけない人だねぇ…」
どうやら先程から気にしていたらしい。確かにこの近辺を歩いていたなら相当目立つ美貌の持ち主だ。
「彼は…えっと…」
「お嬢さんの恋人だろう? こりゃ人は見かけによらないもんだねえ」
 ずばりと言い当てられたことの驚きで思わず絶句し、その顔も真っ赤に染まる。
「んもう、おばさんったら…私に恋人がいるのがそんなに不思議ですか?」
わざと頬を膨らませて無邪気な口調で言ってみると、相手はますます弾けるように笑った。
「落ち着けよ、深鈴」
「だって樹…」
樹と呼ばれた青年は相手に深々と頭を下げる。
「すみません」
「あらやだ、気にしないでおくれよ。顔見知り同士の気兼ねない話じゃないか」
「そうですか。実は急に彼女から『荷物持ちが欲しい』と呼び出しを受けまして。昨日の夜行でここに来たんです」
 相手は樹の言葉を少しも疑ってはいないようだ。多少自分にとって有り難くない言い方だったかもしれないが、深鈴は彼の機転の良さに感謝する。
「樹ったら相変わらず口が悪いんだから! それじゃあまるで私がいつもこき使っているみたいじゃない」
「違うのか?」
「うっ…そりゃ、ちょっとはそうかもしれないけど…」
青い空に3人の笑い声が響き、それに合わせるようにして東京行きの列車が入ってきた。
「それじゃ、行くか」
「そうね。それでは私たち失礼しますね。皆さんにもよろしくお伝え下さい」
「はいよ。あんたたちも気をつけて…元気でね」
婦人はわざわざホームまで出て、席に座る2人を見届けてくれた。
 
 
 
 
 列車はゆっくりと走り始め、それでも木造の駅舎や手を振ってくれた売店の婦人の姿も見えなくなってしまう。
「…終わっちゃったね」
樹は網棚に荷物を乗せながら深鈴の言葉を聞いた。彼女の目には遠く向こうに見える白撫子荘の赤い屋根が見えているらしい。
「深鈴…」
さっきの言葉にはおそらく色々な意味が含まれているのだろう。祖父が亡くなり、白撫子荘自体も人手に渡った今となっては、深鈴がここに訪れる理由もない。久しぶりに再会した幼なじみとだって、帰ってから連絡を取るという手段もあるのだから。売店の婦人はいつでも会えるようなことを言っていたが、それが現実になるのは考えにくいことだった。
「寂しいのか?」
「んー、それもある」
 深鈴は列車の窓を閉めると、向かいに座っている恋人を見つめる。
「私よりも樹が心配かな…」
「俺が?」
「うん。いい記憶なんてないかもしれないけれど、ここに長くいたのは事実だから」
その不安げな視線は、その意味が決して簡単ではないことを物語っている。硝子の森から抜け出すことを望んでいたし、彼女の手により解放されたことを何よりも幸福だと思っている。しかしあの中にかけがえのない友人たちがいたのもまだ事実だろう。空矢は黄金に輝く世界へと辿り着いたのだろうか。湊は心に平安を得ることが出来たのだろうか。そして自分たちと共にあったあの喫茶店のオーナーは…。
「本当はね、あのおばさんにも胸を張って『また来まーす』って言いたかったの。でも樹の気持ちを考えると、やっぱりもうここへは簡単にはこられないよね」
「バカ…お前が気にすることじゃない」
「でも!」
「来たい気持ちがあるのなら、遠慮しないでいくらでもそう言えばいい。お前に付き合うつもりならあるから」
 彼が浮かべた楽しそうな微笑みからは、自分に対する想いと、今の言葉に偽りがみじんもないことを知ることが出来た。
「確かに色々と思うことはある。でも今の現状に後悔はない。かえってお前と帰ることが出来ることに感謝しているくらいだ。時間をかけてゆけば、全ては思い出に変わる」
「…本当にそうなるといいけれど」
「お前がそうしてくれるだろう? お前のやることなすことを見ているだけで、結構笑えるかもしれない。時間なんてあっと言う間に過ぎてくれる」
誉められているのだろうが、ちっともそんな感じに聞こえないのはどうしてだろうか。しかしここで開き直れるところが深鈴の強いところだ。
「まかせておいて! どっちにしろ東京に行ったらやることたっくさんあるんだから。住むところ見つけて、仕事も探して、戸籍もね…なんとかなるといいけど…」
「その前にやって欲しいことがある」
「なに?」
「美味いエスプレッソの店を探すこと」
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
イメージソング   『voice』   ポルノグラフィティ
更新日時:
2005/03/01
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Last updated: 2010/5/12