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33      十字架   (一星×裕香 ペット探偵Y`s)
 
 
 
 
 
 その日、若干の埃が舞うサーカスのテント小屋の前に一台のタクシーが止まった。運転手へ支払いを済ませてそこから出てきたのは眩しいほどの銀色の髪と蒼い瞳を持つ少年である。彼は走り去るタクシーを背にして、目を細めながらテント小屋を懐かしそうに見つめていた。
「リロイ…? リロイではないか!」
小屋の中から彼のことを一早く見つけて駆け寄ってきたのは、サーカス団員に相応しい派手な服装の老人だった。小柄でコミカルな動きをしつつも、彼はここの猛獣使いであり調教師でもある。
「キム…!」
2人は再会の喜びのあまり我を忘れてしっかりと抱き合う。そして互いの存在を確かめるように背中を叩き合った。
「久しぶりじゃのう、よくぞここを訪ねてくれた…ここを出てからのお前の話も絶えずここには届いているのだぞ?」
 空中ブランコの花形スターだったリロイ・スルツカヤがここを飛び出すように去っていってからもう二年近くになる。彼は動物と自然を撮影するカメラマンになるべく世界中を放浪していたのだ。そんな彼の荒削りでありながら温かい写真に惹かれる者も沢山おり、今では若手のホープとして世間的にも認められるようになってきたのだという。生き生きとした自然と生き物の共存した世界は数冊の写真集となって発売されていた。
「本当に立派になったものじゃ。顔つきも随分逞しく見えるぞ?」
「そりゃあ随分と荒波にもまれたからね。でもちょっとやそっとじゃへこたれないのはここにいたおかげだと思っているよ」
「こいつめ…生意気なことを」
しかしキムの目はまるで実の息子を見つめるかのように優しかった。そして颯爽とした姿で先に立ち、テントの方へとリロイを導く。
「みんなお前に会えるのを楽しみにしておるよ」
 サーカスの外見は当時と少しも変わらない。しかし中の住人たちはそうもいかなかった。あの可愛い小さなホワイトタイガーだったコンスタンチンも今では親と変わらぬ大きさになり、サーカスのステージに出ているのだという。
「こいつは…アレクセイだよな、よくショーの時上にぬいぐるみを被せていた。その隣は新顔か?」
リロイが指したのはキムが腕にしっかりと抱いている小さな団員の事である。アレクセイは小型犬の中でもリーダー格であり、リロイの記憶の中にも色濃く残っていたのだが、その横にいるとてもよく似た犬には見覚えがない。するとキムは『よくぞ聞いてくれました』といわんばかりに鼻の穴を膨らませる。
「こいつか? ショコラといってな、アレクセイの息子じゃよ」
「…このチビに子供がいるのか?」
「お前が出ていってすぐに気がついたのだが、この街で運命的な恋をしたらしいんじゃ。飼い主殿の御好意で息子であるこいつはわしが引き取らせてもらった」
 腕の中の2匹はハンサムな青年に向かってワンワンと挨拶をする。それを可愛らしいと思いながらもリロイの内心は少し複雑だった。それを察してキムは素早く話を変える。
「それにしても、お前も忙しいだろうによく時間が作れたものだな」
「まあね。でも彼女は俺の行く道を示してくれた恩人みたいなものだから…晴れの日には必ず時間を作って訪ねようって決めていたんだ。挙式もパーティーの時も写真担当として腕を奮わせてもらうよ」
「そうか…実はアレクセイの事でも彼女には世話になっていてな、我々も式とパーティーに列席させてもらえることになっているのじゃ。そこで動物たちと簡単な余興もさせてもらうつもりじゃよ」
「それは楽しみだ」
年の離れた2人は数日後の晴れの日を想い、互いに自然な笑みを向け合った。
 
 
 
 
 
 並木町商店街にあるペットショップ『けものみち』は、いついかなる時にもお客さまのニーズに応えられるように、ペットだけではなくそれ用のあらゆる附属商品をも充分に取りそろえている店であった。その範囲の広さ故に店長である宗征次にとって実に不本意な物が扱われることも度々であり…そして不幸なことに、本日やってきた客人はそういうタイプの物を求める人間だった。彼はレジに座って相手の様子を伺いながら、それでもイライラは指先に集中しており、先程からレジ台に叩きつけるコツコツという嫌な音が響いている。しかし相手を追い出したり窘めたりすることは出来ない。なんたってこっちの不用意な一言で拳銃を取り出されたらどうなるのか! どうやら彼もまだ自分の命は惜しいらしい。
「ミューちゃんにはこのフリルが沢山付いているのが似合うだろうか。しかしピンクのサテン生地も捨てがたい。この黄色のドレスもブルーのリボンがミューちゃんに大変よく似合っているし…」
 店内に鞍浜吉平の深い溜め息が広がってゆく。小型犬用のドレス一式というのは黒いスーツを着こなしたオールバック頭の中年男性の買い物でないのは確かだろう。話を聞くところによると、この男は政府の要人を警護した事もある腕利きの狙撃手であるらしい。しかし愛犬のミューちゃんの前では単なる親バカでしかなかった。
「さあミューちゃんはどれが好きかな? もちろんホワイティにもお揃いのドレスを買ってあげるからね。そして首にはレースのリボンをしてあげようね」
「いい加減にしてくれねーかな!?」
ついに征次の堪忍袋の緒は切れてしまった。実際この風景のおかげで商売あがったりの状態になりかかっているのである。いつもなら店長と何気ない動物談義をして帰る常連さんさえ申し訳なさそうにそそくさと帰っているのだ。
「客に対して随分な物言いだな。よちよちミューちゃん…おっかないお兄ちゃんでちゅねー」
「悪かったな!」
 少しも悪びれた顔を見せない相手に(実際悪いことはしていないのだが)、今度は征次が苦い溜め息をつく番である。
「犬のファッションショーがやりたいのなら他に行ってくれ。こっちも客商売をやってはいるが、今のあんたは立派な邪魔者だ!」
レジ台の上に拳がドカンと音をたてて落下する。店内にいる動物たちも皆体をブルッと震わせた。一瞬の空白…しかしここで声を荒立てたりしないのは流石鞍浜といったところか。
「そうか…」
彼は手にしていた犬用のドレスを近くに置き、その手でミューちゃんの頭を撫でてやる。そしてそのままポケットの中に入っていた一枚のカードを店長へと差し出したのだった。受け取った側はそれを見て呆然とする。
「ブ…ブラックカード…?」
「それでこの店にある全てのチワワ用ドレスを買わせてもらおうか。足りなければ言ってくれ」
 某カード会社が発行する『選ばれたお客さま』のみが使えるというプラチナの上を行く特別なカードである。犬のドレスどころか店一件余裕で購入出来そうな代物だ。もちろん征次がそれを見るのは初めての事だった。確かにこの店でも使えるのだけれど…どちらかといえば悪夢に近い夢のような感覚でカードを受け取る。
「まいどあり…」
「ミューちゃん、この続きはお家に帰ってからにしようね。明日の結婚式は花嫁さんより美しくなってしまったら…いやはやどうしようか」
そりゃいくらなんでもまずいだろ…店長は作業をしながら心の中でそうつぶやいた。
 一生に一度見られるかどうかという種類の品を相手に返し、大量のドレス類を袋の中に詰め込んで手渡す。
「ところで」
「あん?」
「店長殿も確か明日の結婚式に出席されると伺ったが」
顔見知りのペット探偵事務所にいる少女のことである。一月ほど前に教会での挙式とガーデンパーティーへの招待状を受け取っていた。
「まあね。あいつには少しは世話になってきたし、色々と世話もしてきたし」
その言葉は謙遜しつつもどこか自慢的に聞こえた。
「そうか。でも夏のスーツの方はお持ちかな? まさかその姿で行くつもりは…」
「でっかいお世話だ!! 俺だって結婚式に出かける時の服装くらいわかっている!」
「そうか。いや、それならば良いのだ」
 店長の背後からの叫びをあっさりと無視して、片手にミューとホワイティを抱え、もう片手に山のような荷物を抱えて鞍浜は堂々と立ち去っていった。
「なんだってんだよ、一体」
この時点で征次は鞍浜が『この姿が板につきすぎていて結婚式用の仕度などしていないだろう』と思いこんでいるのだと考えたが…実はその言葉には『もしかしたら何も持っていないのか? だったら買ってあげてもいいのだぞ?』という同情的な意味があるのだと気がついた時には、流石の彼もしばらく浮上できないほど落ち込んでしまったのだという。
 
 
 
 
 商店街内にある『けものみち』から歩いてだいたい数分のところに、高価なギフト用品を扱っている店舗があった。こちらもまた求めるお客さまのニーズに応えるべく家庭的で実用的な品物から高価な装飾品まで幅広い品揃えを誇っている。
「うーん…こっちもいいなあ。でもやっぱりこっちかなあ…」
手頃な価格の贈り物コーナーで、可愛らしいエプロンを身につけた若きハムレットが先程から唸っている。店員さんたちも呆れを通り越して温かく見守っている感じだ。
「ティーカップのセットはもう受け取っているかもしれないしなあ。テーブルクロス…いやいや、もしお座敷タイプの家だったらかえって迷惑になるし」
 彼…さくら保育園の保父さんである守屋一郎太の知り合いが結婚式を挙げるという知らせを受けたのは一月ほど前の話だった。ペット探偵である彼女には保育園のウサギがいなくなった時に大変世話になったし、そのお礼の意味も含めて何か贈り物をしたいと思ったのだ。しかしこの一ヶ月ひたすら悩み続けたものの、未だに何を贈るのかは結論が出てこなかった。この店に訪れるのも何回目になるだろうか。
「困ったなー。式は明日だから、早く決めてしまわないと…」
口ではそう言いながらなかなか上手くはいかないようだ。これまで何度も吟味してきた品々を前に彼はがっくりと俯いてしまう。心を込めて選んだ贈り物ならば喜んでもらえるだろうに…とわかっているのにだ。
 その時店の真ん前に一台の高級外車が横付けにされた。黒いスーツの運転手が降りてきてうやうやしく後部座席の扉を開ける。
「なんなんだ…?」
一郎太はゆったりと構えながらそう言ったが、それとは逆に店内は突然慌ただしくなってくる。これはここにとって大変重要な客人が訪れた事を示すものだ。ここの店長らしき女性は髪の乱れを整え、社員たちは入り口から店内中央までの長い赤絨毯を敷き始めた。
「いらっしゃいませ、御厨様」
社員総出の出迎えを受けたのは…この近くの私立有名小学校の制服を着て深く帽子を被った十歳くらいの男の子だった。その子の左右両隣には執事らしき大人がアタッシュケースを手に寄り添っている。
「本日は何をお求めでございましょう?」
自分の手を重ねてもみながら、店長が遠慮がちにそう話し掛けていた。男の子…御厨千代丸はしばらく店内を見回していたが、やがて一つの贈答品を見つけて小さな指で指す。
「あれ」
 一郎太も店員たちと一緒になってその指の先を見つめた。それは高級クリスタルで作られた等身大ゴールデンレトリバーの置物だった。当然値段なんて付けられるものではない。執事たちはレジまで歩みを進めると、アタッシュケースを置いてその中身を開いて見せた。そこには札束がぎっしりと詰め込まれている。
「ありがとうございます。こちらの品はご自宅までお送りした方がよろしいでしょうか?」
「明日友達の結婚式なんだ。それに贈るものだから、直接教会まで届けて」
「ハイッ、是非お任せ下さい」
とても小学生とは思えないほどの豪快な買い物っぷりであった。最後には店員どころか奥にいた事務員まで出てきての総出のお見送り大会となり、店内にはすでに灰となっている一郎太だけが残されていた。
 
 
 
 
 
 やがてゆっくりと日が傾きはじめ、歩いてゆく人々の影も長くなってゆく。人影もまばらになってきた商店街の中をよく似た顔の男女が並んで歩いていた。このあたりの人なら誰でも知っている名物姉弟である。2人は明日結婚式を挙げる共通の友人の元に出かけて贈り物を置いた帰りなのだった。弟の日向健は持ち前の絵の才能を発揮して可愛らしいガーデンパーティー用のウェルカムボードを作成し、姉の歩は結婚式に使う手製のリングピローを贈ったのだ。いずれも手作りの温かみが伝わる素敵な贈り物であり、彼女は2人の友情に心から感謝していた。
「喜んでもらえて良かったね。夕焼けも綺麗だから、明日もきっと良い天気だろうし…楽しみだなあ、結婚式」
「あんたは脳天気でいいわよね」
 無邪気に明日を待つ健に反して、歩は相当複雑な心情があるように見えた。ここ数日は口数も少ないし、溜め息の数も格段に多い。健はこれでも気を使ってなるべく触れないようにしてきたが、ここまで言われてはムッとくるものだ。
「姉さんも素直に羨ましいって言ったら? 裕香ちゃんは18で花嫁さんになるのに比べて、姉さんは彼氏いない歴今年で何年目…ふがっ!!」
最後の言葉を言い終えないうちに歩の拳が健の頬にくい込んだ。
「なっ…なにをしゅるっ…」
「本当にうるっさいわねー、健のくせに!」
通りがかりにとっては一体何の修羅場かと勘違いされそうだが、最早商店街では日向姉弟の喧嘩なんぞ日常的なものだった。気に止めるどころかみんなニコニコと微笑ましく見守っている始末だ。
「相変わらずすぐ暴力に訴える…」
「あんたが悪いんでしょっ!」
 プイッと横を向いた歩だったが、その様子は寂しげ…というよりも悲しそうに見えてしまった。流石の健もそれ以上のことは言えなくなってしまう。
「あんたにはわからないのよ。親友が遠くに行ってしまう寂しさなんて」
「どうして? だって裕香ちゃんは結婚しても変わらないと思うけれど。家なんてもっと近くになるわけだし、大学通いながらペット探偵だって続けるんでしょ?」
どちらかといえば不器用な方の部類に入る彼女がそれだけの決心をしたことには健も随分と驚かされたものだった。だからこそ心から祝福したいという気持ちにもなれるのだが。
「うらやましいわよ、あんたのその単純なおつむが」
はあーっと呆れたような溜め息をつきながら、歩は健の三歩先をてくてくと歩いて行く。
「ちぇっ、バカにしやがって!」
 慌てて追いかけようとした健はその場で何故か足を止めた姉の背中に直撃した。
「なんなんだよ、一体」
「ねえ、あそこを歩いているの…」
歩が指した方向には身長が高くこの時期にがっちりとスーツを着込んでいる若者の後ろ姿があった。彼は両手にスーパーのビニール袋を山のように抱えている。
「バリーじゃない?」
「本当だ」
こんな時間に何を…と考えている歩を無視して健は相手に向かって走って行く。
「おーいっ、バリー」
「わっっ」
突然背中を叩いてきた健に荷物を落とされる心配はしたものの、それでもバリーの声は少しも驚いている様子はなかった。
「ちょっと健、何やってんのよあんたはっ」
 向こうにいた歩も慌てて2人の元に駆け寄る。でもバリーは近くにこの姉弟がいたことに気がついていたのだろう。少しも表情を変えずに振り返った。
「歩に健…どうしたんだ?」
「裕香の家に寄った帰りよ。明日の式に使って欲しい贈り物を渡してきたの」
ここで会ったのも何かの縁だったと思ったのか、顔見知りの3人は探偵事務所の方に向かって並んで歩き始める。
「バリーこそどうしたんだよ、この大荷物…」
「ああ。明日のパーティーに使うケーキを焼こうと思ったのだよ」
「「ケーキ!?」」
明日は挙式を終えてすぐに小さなレストランを貸し切ってのパーティーが開催されることになっている。確かにデザートとして手製のウェディングケーキが出されれば評判を呼ぶことは間違いない。
「でもそれを今から作るの? 招待客も相当なものだと聞いたけれど…」
遠慮のない健の脇を歩の肘が思いっきりどついた。何を今更…バリーには無敵のコックモードがあるではないか。
「別に大変なわけではないのだが、それでもどうも落ち着かないのだ。何かをしなくては…しなくては…と急かされているような感じがする」
 そう言うバリーの表情はどこか先程の歩の表情と似ていた。それを見て健はまた首を捻る。
「やっぱりバリーも寂しかったりするの?」
「寂しい? そういった感情は私の理解の中には…」
「バカね。そういうのって理屈じゃ語れないものなのよ」
歩はキッパリと言い切ってベーッと舌を出した。
「確かに裕香自身は何も変わらないって言うと思うわ。でも名字も変わって、家族も変わって…少しずつ環境が変われば何もかも今まで通りとはいかないでしょう。同時に私たちの過ごしてきた時間も終わってしまうような気がするのよ」
「そんなもんなのかな…」
健はまた首を傾げたが、歩もバリーもそれ以上のことは言わなかった。その代わり歩は明るい口調でバリーに話し掛ける。
「身の置き場がないのは私も一緒なのよね。良かったら手伝わせてくれない? そのケーキ作り」
「そりゃいいや! 姉さんのバカ力はクリームを泡立てるのに役立つ…ふがっ!?」
言い終わらないうちに再び健の頬を歩の拳が貫いた。
「健っ、あんたも手伝いなさいよ! 折角のケーキのデザインなんだから、失敗したらただじゃおかないんだからね」
「はいはい」
バリーは2人の申し出に返事をする余裕を与えてはもらえなかったが、それでも仲良く喧嘩をしている2人を見ていると「それでも良いか」と自身を納得させることは出来た。
「「それでは早速お邪魔するね」」
「…仰せのままに」
 
 
 
 
 小さな窓から優しい朝の日射しが射し込む部屋で、ウェディングドレスに身を包んだ若い花嫁は座りながらじっと自分の出番を待っていた。一生に一度の大きな舞台に少し緊張しているのか、それでも頬は薔薇色に輝いている。しっかりと握りしめるブーケの花の香りも彼女を祝福するかのように部屋を包み込んでいた。
(落ち着かなくちゃ。ドレスの裾を踏んで転ばなきゃいいけれど…)
少しドジなところのある自分に不安はあったが、それでも心は幸福感で満たされている。もう少しで挙式が始まると呼び出しがかかるだろう。今はひたすらにその時を待っていた。
 そのままの状態でどのくらいの時間が過ぎただろうか。突然裕香は耳元で鳥が羽ばたくような音を感じる。頭上のヴェールを気にしながらも、自然と真っ直ぐ前を向いていた。しかしこの感覚は何故か以前に感じたことがあるような気がしてならない。
「…青い鳥?」
間違いなかった。あの夏…必死に街を走りながら探し求めたちょっと不細工な青い鳥の姿がそこにはあったのだ。
「グエーッ!!」
決して美しくない泣き声を響かせながら、やがて幻のようにゆっくりとその姿を変えて行く。僅か一瞬の間にそれは見目麗しい異国の騎士へと変身した。裕香は彼に向かって知っている名前で呼びかける。
「トリスタン…皇子…様」
「左様。久しぶりだな裕香、覚えていてくれて嬉しいよ」
 青い鳥を見つけるたびに、卵から蛙に、そして幼い皇子へと姿を変え続けた人だった。それでも二度と会うことのない存在だと思っていたのに。裕香が無意識に差し出した手を彼は両手で優しく包んでくれる。
「もう一度お会いできるとは思っていませんでした」
「お前は私を今の姿に蘇らせてくれた恩人だ。祝いの為の一言を言わずにはおれなかったのだよ」
そしてドレス姿の彼女を見つめながら幸せそうに微笑んだ。
「本当に美しいものだな。隣国にも美姫と評判の姫君は多数いるようだが、ここまでの者はいないだろうと思うよ」
「…ありがとうございます」
 すると突然皇子の手を握る裕香の力が強くなった。そこには何か深い想いがあるような気がしてふと我に返る。
「裕香?」
「お礼を…ずっとお礼を言いたかったんです。皇子は私に大切な星の存在を教えてくれました。この世界でもっとも美しく輝く星の存在を」
ペット探偵の仕事は大好きでも、時にはつまづき、どうすればいいのかわからないことも沢山あった。その時に聞こえてきた優しい声…それを気にしながらも仕事に集中することで追いかけることが出来ずにいたのだ。そんな彼女の背中を親切な皇子様はそっと押してくれたのだった。
「私は礼を言われることなど何もしていないよ」
「でも!」
「忘れないでおくれ、裕香。あの星は確かに素晴らしい星だろう。しかしそれを最も美しく輝かせているのは他ならぬそなた自身なのだよ?」
優しい一言に裕香も言葉を失ってしまう。皇子が温和な微笑みを浮かべると、やがてその姿がゆっくりと霞んでゆくのがわかった。
「皇子様!?」
「私を解放するたびにそなたはこう言ってくれたね。その言葉を今そのままここで捧げよう」
彼はゆっくりと手を離し、それをそのまま祈る時のように胸のあたりで重ねた。
「裕香と…裕香の愛する全ての存在に幸運を」
 小さな扉の向こうからコンコンというノックの音が響いてくる。
「はいっ」
「そこに誰かいるのか?」
その声の主はバリーだった。彼自身のご主人様である裕香の叔父夫妻に命じられてここまで来たのだ。しかしポンコツでありながら高い性能を持つ彼は中の気配を瞬時に感知したらしい。
「誰も…いないよ」
裕香の言ったことは本当だった。先程まで一緒にいた人はすでに何もなかったかのように消え失せている。
「そうか…もう挙式が開始される時間だそうだ。出てこられるか?」
バリーはそっと扉から顔を覗かせる。同時に裕香の心臓音も一段と高鳴った。
「うん。大丈夫だよ」
 
 
 
 
 教会の重い扉がサッと開かれると、まず一番最初に目に入ってきたのは祭壇へと続く真っ赤なヴァージンロードだった。すでに涙が出かけている父親の手に引かれてゆっくりと歩き始めた。列席者の感嘆の声を耳にしながらも、裕香の視線は自分を祭壇の前で待っていてくれている花婿にのみ注がれている。高校を卒業して間もない、18になったばかりの若い青年だった。
「一星…」
 これまで2人が過ごしてきた時間が走馬燈のように蘇ってくる。初めて出会ってから二年…その殆どは他県で寮生活を送る彼を想うことしか出来なかった。結婚は早すぎると誰もが言ったが、それでももう離れて生きてゆくことなど考えられなくなっていた。一歩一歩進んでゆくたびに白いタキシード姿の一星が近づいてくる。彼はこの瞬間を待ちかねたかのように手を差し伸べてきた。
(やっと…やっと一緒になれるんだね)
視線でそう語りかけながら裕香も手を伸ばす。すると予定ではそっと手を取るはずの一星が、裕香の手を握りしめて強く自分の方へと引き寄せる。高いヒールを履いたまま転ばなかったのが奇跡のように思え、当然周りも動揺する。
「一星!?」
「何も心配することはないからな。お前が嫌だって言っても俺は絶対お前を離したりしないぜ」
ほんの少し照れたような微笑みも、それを隠すかのような乱暴な言葉も…その全てが心の奥まで優しく染みてゆく。2人は互いの手を握りしめて祭壇の前に並んだ。
「私も…私も絶対に離れないから」
「ああ」
高校二年生同士があの日の真夜中に交わし合った想いは、数年の時を経て2人を愛する人たちに見守られながらこうしてゆっくりと実を結んでゆくのだった。
 
 
 
 
 
END
 
 
 
 
イメージソング   『愛を止めないで』   小田和正
更新日時:
2005/11/08
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Last updated: 2010/5/12